わだつみの王 01
一九七四年五月 未明 聖域
カモミールの花が香る季節だった。
だんだんと陽ざしが強くなり、オリーブ畑のくすんだ緑や、エーゲ海の青が色濃く変わりはじめるギリシャの初夏。聖域からのぞむ古ぼけた街道や野辺には、赤紫色のアネモネやブーゲンビリアといった、力強い花々が咲きほこり、楚々とした野の花が彩る春とは、また違った野趣を感じさせる。
聖域の空がうっすらと白みはじめた頃、自室の寝台で夢うつつを彷徨っていたカノンは、サガから折り入って話があると言われ、容赦なく現実へ引き戻された。
またお得意の説教だろうか。
今朝は夜が明ける前に部屋へ戻っていて正解だったと、カノンは小さく息を吐いた。ここのところ外泊続きで、顔を合わせるのは実に三日以上ぶりだ。当然、兄の機嫌はよろしくない。
十二宮からやや離れたところにある、古い遺跡の裏手まで来ると、サガは無言でカノンへと向き直った。東の空から昇りはじめた太陽が、石畳や石柱を濃い橙色に染め上げてゆく。生まれたての陽の光を受けて、サガが身にまとう双子座の黄金聖衣が、きらきらと輝いた。
射手座のアイオロスが、このほど正式に次期教皇の座に任命されたらしい。同時にサガへは、教皇を補佐すべく振る舞うようにとの命が下ったという。
あらためて、カノンは自分と同じ顔を持つ兄の表情を眺めやった。粛々と、しかし圧倒的な威圧感と存在感をもって目の前にたたずむサガの様子は、一見していつもと変わりはない。
けれどカノンにはわかる。サガの身の内に潜むどす黒い闇が、腹の奥底で渦のようにうねっているのが。
――やせ我慢は身体に毒だぜ、兄さん。
きっかけを、与えてやるなら今だ。高い自意識に裏打ちされた、矜持という名の堰堤を、決壊させてやればいい。
すでに楔は打ち込まれた。あとほんの一押しで、それはもろく崩れ去るだろう。
この世に生をうけた瞬間から、カノンの生涯は閉ざされていた。双子座の黄金聖闘士の、弟に生まれついたという、たったそれだけの理由で。
顔も身体も能力も、寸分違わないはずなのに、守護星も守護宮も、光輝く聖衣も、すべてが双子の兄のもの。
それが我々の宿命なのだと、サガは言う。
『わたしの身に万一のことあらば、その時はおまえが双子座の黄金聖闘士として――』
兄さん。あんたは決まって、二言目にはそう言うけれど。
では、その『万一が訪れなかったら』?
呼ばれぬ名を持つ生に、どんな意味があるのだろうか。
誰の目にも留まらぬように、存在を悟られぬように。生きているのか死んでいるのか、ここにいるのかいないのか。カノンが息をしていようがいまいが、誰も気にとめはしない。
こんな生活が一生、いや少なくとも、サガが死ぬまでは続くのだ。
無為に過ぎてゆくだけの虚ろな日々は、少しずつ、致死量には至らない毒を与えられているのと同じだった。毒はやがて体内にたまり、そうしていつしか、おのれの息の根を止めるに違いない。
カノンには、そんな予感があった。
サガのことは、嫌いではなかった。自分のすべてを奪って生まれた男だというのに、不思議と憎む気持ちにはなれなかった。
サガこそが教皇にふさわしい、最強の黄金聖闘士なのだと称えられれば、悪い気はしなかった。容姿も能力も、すべてが瓜二つである双子の兄への称賛は、すなわちカノン自身のそれに等しい。
サガにできないことは何もない。それはつまり、このカノンにも。
サガの存在が誇らしかった。あれは俺の血の繋がった兄だと、誰にも話せないのが、少しだけ悔しかった。
サガに対する、はっきりとした憎しみの感情を自覚したのはいつだと訊かれたら、サガ自身が、みずからの欲望を抑えつけて生きようとしたその瞬間だと、カノンは答えるだろう。
プロテクターも身につけていないのに、黄金聖衣で武装した兄から、まさか本気の拳を向けられるとは思わなかった。手を上げられたことは何度かあるが、殺されると感じたのは初めてだった。
心の闇を見抜かれて、醜く歪むサガの貌。どんな者にもわけへだてなく優しく、まるで神の化身のようだと慕われている男が、激昂するのも手を上げるのも、カノンに対してだけだ。
思えばそうすることで、サガはかろうじて、正気の一線を保っていたのかも知れない。
サガは大馬鹿だ。アイオロスよりも、自分こそが教皇にふさわしいと、本心では感じているはずだ。それなのに、くだらない見栄や意味のない虚栄のために、実の弟を殺そうとする。
善と悪の二面性を象徴する、希有な双子座の黄金聖衣。
心の奥底でせめぎ合うサガの本性は、悪だ。カノンと同じ、暗くて深い闇の業を、サガも生まれつき背負っている。それこそが、恐らく、双子座の黄金聖闘士として生まれた宿命なのだ。
だが、嘆かなくていい。善だろうが悪だろうが、サガとカノンが誰よりも強大な力を持っていることに変わりはないのだから。
世界はこんなにも醜く歪み、理不尽であふれている。
カノンは常々、そう思って生きてきた。
神のもとでは、誰もが平等だなんて嘘っぱちだ。掟に従い、聖域に慎ましく追従してきたサガは、結局教皇に選ばれはしなかった。
カノンにしてもそうだ。神が真に平等だというのなら、大いなる実力を秘めながら、なぜ自分だけが存在を抹殺され、日陰の道を歩まねばならないのか。
サガ。なぜ欲望から目を逸らす。
善こそが正義だと、美しいものだと、いったい誰が定めたのか。
神にあらがい、すべてを覆すだけの力が、おまえには――――俺にはあるのに。
サガの手による放逐は、カノンにとって死刑宣告も同然だった。『おまえはいらない』と、はっきり存在を否定されたのだ。
この世でたった一人、自分を必要としていたはずの兄に。
あの底知れぬ絶望の淵に沈む感覚を、カノンは、生涯忘れないだろう。
閉じ込められた岩牢の磯臭さと、岩肌の冷たさ。岩打つ波飛沫。満潮を報せる潮騒。小宇宙を燃やし、つかの間あらがっても、すぐに体温を奪ってゆく残酷な海の青。
暗く冷たい岩牢で、誰にも何も知られず、一人冷たくなって死んでゆく。それだけは絶対にご免だ。
呪わしい聖域。
忌むべき女神、教皇、アイオロス、そしてサガ。
いつか必ず殺してやる。たとえどれだけの年月を経たとしても。
何度も遠のく意識の中、もはやその強い意志だけが、岩牢でカノンを生かす唯一の糧となった。
一九八七年七月 聖域
復興後の教皇宮では、毎週週末の午後、黄金聖闘士による定期会合が催されることになっている。会合といっても決して仰々しいものではなく、女神いわく、コミュニケーションの一環です、とのことで、いわば各人の近況報告のようなものだ。
過去、聖域を混沌へ陥れた要因の一つに、黄金聖闘士どうしのコミュニケーション不足が挙げられます、と女神ににっこり微笑まれれば、誰も異議を唱えることはできない。指摘はもっともだし、それ以前に、女神の言葉は何よりも優先されるべき『絶対』なのだ。
「ミロ」
背後から急な声をかけられたのは、会合を終えた直後のことだった。声の主は振り返らずともわかる。獅子座のアイオリアだ。
「明日は非番だろう。どうだ、これから市街へ降りて、一杯」
先日飲み比べをした際、ミロより先にろれつが回らなくなり、前後不覚に陥った末、アイオロスに背負われて、一足先に酒場を後にしたことを、負けず嫌いの同胞はまだ根に持っているらしい。今日は負けんぞとわかりやすく意気込む弟の後ろで、兄の方がひらひらと手を振っている。付き合ってやってくれとでも言いたげだ。
アイオリアはともかくとして、聖域の英雄から言外に乞われては、さしものミロとて、無碍にするのはいささか気が引ける。口元に手をあて、少し考える風にした後、ミロはしかし、きっぱりと首を横にふった。
「悪いが、遠慮する」
「何だ。先約でもあるのか」
「そのようなものだ」
アイオリアにうなずいて、アイオロスへは小さく目礼すると、ミロは静かに外套を翻した。
会合を終えたあとは、基本的に自由解散だ。教皇宮の入口にある高いアーチをくぐった先、傾きかけた陽ざしを浴びる柱の影で、デスマスク、アフロディーテの二者と歓談するカノンの姿を目にとめる。
互いの視線が交差したのは一瞬だった。歩む速度はそのままに、ミロは双魚宮へと下る石段を目指す。長く艶やかな髪をなびかせ、遅れて後から追いついた大幅な足音が、あっという間に隣へ並んだ。
「弾んでいたようだな」
「おまえの話だ」
「ほう」
「子どもの頃、アイオリアが拾ってきた犬のことで、取っ組み合いのケンカをした話とか」
「……」
「カミュにギリシャ語を教えてやろうとして、うまくいかずに癇癪を起こした話だとか」
「……」
「また聞かせてくれるそうだ」
どうりで、デスマスクとアフロディーテの視線が、痛いほど背中に突き刺さっていたはずだ。どちらも確かに本当の話で、懐かしさはあるものの、当事者のミロとしては決まりが悪い。
それにしても、カノンはいつの間に、あの二人とそのような話をする仲にまで至ったのか。
もうよせと止めたい気もするが、こんなことで目くじらを立てるのは狭量な気がする。止めたところでカノンが大人しく聞き分けるとも思えないし、そもそも、カノンの行動を制限する権利はミロにもないのだ。
二人そろって足早に双魚宮を過ぎ、宝瓶宮を抜け、磨羯宮へ差しかかったあたりで、それまで黙って隣を歩いていたカノンが、ふと口を開いた。
「今夜は?」
たったひと言。
それだけで、何を期待されているのかわかってしまう。
「……別に何も」
なんとなくそう来るかと思っていたので、アイオリアの誘いを断ったとまでは、口にしない。けれどカノンはそんなミロの心中を見透かしたように、嬉しそうに眼を細めた。
やがて天蠍宮の入口付近へ到着すると、では夜にと言いしな、カノンの指先が、波打つミロの金髪をひと房とらえた。指の間に絡めてしばらくくるくるともてあそんだあと、名残を惜しむように離れてゆく。
どうせあと数刻もすれば、嫌というほど顔をつきあわせるというのに、そんな風にされたら、どんな顔をして別れればいいかわからなくなるではないか。
カノンの後ろ姿を見送ることはせず、迷いを振り切るように、ミロはうす暗い自宮内へと素早く立ち入った。
*
身体を重ねたからといって、何を約束したわけでもない。誓い合った仲でもない。
結局のところ、目に見える変化と呼べるものは何もないのだ。
少なくとも、ミロはそう思う。
ただ、向けられるまなざしを受けとめることには慣れた。それから、以前より少しだけ、何を求められているのかを察せられるようになった。
ささいだが、それが意外と重要なことなのだと気づいたのは、ほんのつい先頃だ。
これまで、約束らしい約束などせずとも、好き勝手に天蠍宮を訪れていたカノンが、ある日を境に、しばしば断りを入れるようになった。
――今夜は?
夜という単語が指し示すその意味を、ミロははじめ、言葉通りにしか受け取っていなかった。
いつもの調子でカノンを天蠍宮へ招き入れ、酒を酌み交わすうち、ふとした拍子に視線が絡みあい、気がつけば、吸い寄せられるようにくちびるを重ねていた。
あれはそういう意味だったのかと悠長にも思い至ったのは、ラグの上に組み敷かれ、絹の感触を持つ長い髪が、帳のように頬へ降りてきたあとのことだ。
空いていると応えた時、カノンはどんな顔をしていただろうか。
ならばもっとよく観察しておくべきだったかと、ミロはほんの少しだけ後悔した。
触れあえば当然のように深くなるくちづけと、あわさったところから浸透する肌の熱。緊張と戸惑いで、我知らず腰が引ける。僅かに身を捩ったのを抵抗と受け取ったのか、カノンは思いがけず素早い所作で覆いかぶさってきた。
伺いを立てるくせ、いざとなると抑えが効かない、まるで中途半端にしつけられた獣のようで、呆れつつも、ミロは胸のどこかがむず痒いような、何とも言いあらわせない複雑な気持ちになる。
カノンのこういうところは、嫌いではないのだ。多分。
たったそれだけのことで、胸の鼓動がこんなにも早鐘を打っているのは、きっとそのせいなのだろう。
以前はどうだったろうか。
カノンとこうなる前の自分を、ミロはもう思い出せない。
初めての夜は、正直いっぱいいっぱいで、触れられるたび、どこもかしこも、もうこれ以上はという限界を思い知らされた。これまでにない激しさで求められ、翻弄され、追い詰められて追い上げられ、わけもわからぬまま取りすがった。
とにかく無我夢中で、はじめから終わりまで、まるで余裕がなかったことは認めるが、だからといって、今さらカノンを拒む理由にはならない。
あの夜、慣れない身体を開かせるため、カノンが柄にもなく気を揉んでいたことは、ミロにも十分つたわってきたし、だからこそ受け入れられた。カノンにも、そういう時があるのだ。
ミロ自身、同性と寝たのはあれが初めての経験で、対して、カノンがそうでないことはすぐにわかった。女役に甘んじたのはそのせいもある。下手に主導権を握ろうと躍起になって、勝手もわからぬくせにと呆れられたくはなかった。
大丈夫だ、カノンがどんな風に自分を抱くかなんて、もう、知っている。
そう思って臨んだ二度目の夜も、その次も――両手の指では数えられなくなるほど重ねた夜も――カノンは、驚くほど優しくミロを抱いた。
総身がわななくたび、なだめるように髪を梳く繊細な指先と、背中や首すじを撫でさすらう手のひら。降るように優しいキス。手指の股や足の爪先にいたるまで、まさかと思うようなところにも、カノンはためらいなくくちびるを寄せる。
もういいと、慣れぬ懇願を差し向けても、まだだと首を振る。
気が触れそうになるくらい執拗で、悩ましげな愛撫と、蠱惑的な碧いまなざし。官能的なくちづけは、まるで奔流みたいだった。呑まれて溺れ、やがて深い水底へと沈む。
引き揚げては突き落とされ、上昇と下降を無限に繰り返す。いっそもてあそばれているのではないかと錯覚しそうになることもあった。けれどそうではなかった。
ただおまえを悦ばせたいだけなのだと、静かに輝く瞳と、情熱的な素肌が、無言で訴えかけてくる。
だからといって、こんな。
必要以上に丁寧に扱われるのは屈辱だったけれど、耐えられたのは、ただひたむきに向けられるその想いを、ミロが確かに感じ取ったせいだ。
ずいぶんと、手練手管に長けている。
一度だけ、意趣返しのつもりで指摘してやったら、カノンは一瞬目をまるくして、それから、少し困ったような顔になった。おやと思い、訊ねてみようとしたのに、くちびるを奪われて沈黙した。
その後は、いつも以上に恥ずかしい目に遭わされたので、ミロは今でもその時のことをよく覚えている。
施されることに慣れきった王と、当然のようにかしずく騎士。
そんな関係を望んだつもりはなかった。カノンの想いに胡座をかいて、優越に浸りたいわけでもない。
それでもカノンが望むならと、一瞬でもこの関係に甘んじてしまったのが、そもそものはじまりだったような気がする。
繰り返される行為に、どんな意味があるのか知りたかった。どんな無体も、カノンにだけゆるす理由や、ときおりふと湧き上がってくる、この痛いような苦しいような感情に呼び名があるのなら、それも。
だが実のところ、ミロがこういった思考にふけっていられる時間はあまりない。カノンが実にいいタイミングで、ミロの思考の先を奪ってゆくからだ。
冷たいようでいて熱いくちびると、ととのった綺麗な指先で。
空になったグラスが、音もなくラグの上へ転がったのを、ミロはどこか紗がかかったような頭で見送った。
開けたワインボトルは三本、果実酒が二本。先日カミュが持ち込んだウォッカを、カノンがカクテルにしたやつを、タンブラーで二杯。酒量としてはいつも通りで、お互いに悪酔いするほどでもない。
けれど今夜のカノンは少しだけ性急だった。ウォッカとライムの味が舌に残るキスをして、もつれ合うようにして倒れ込んだソファの上、ミロのシャツをたくし上げ、赤く腫れ上がるまで胸の尖りを舌で嬲り、強く押し込む。歯の先がかすめるたび、漏れそうになる引き攣れた声音を押し殺すのに、ミロは必死だった。
「っ――、や、め……ッ」
拒む言葉を口にすると、愛撫の粘度が上がるような気がする。わかっていてやめられないのは、これも誘うということに含まれるのだろうか。
やんわり歯をたてられるのと同時、片方を指先で捏ねまわされると、びりびりと電流にも似た刺激が全身を駆け巡った。どうしようもなく身体が疼いて、たまらず腰を押しつける。服の上から臀部をまさぐる手に促されるように、みずから邪魔な衣類を脱ぎ払う。カノンに見られていると思うと、自然と興奮で喉が鳴った。
カノンの髪に手指を差し入れ、髪を梳いてやる。うなじまで手を滑らせて、ゆっくりと首裏を撫でると、かたちのいい鼻先がすりと胸元に寄せられ、なぜだか無性に切なくなった。さらさらと流れるカノンの髪は、肌に心地よい。獣というか今は犬だなとミロは思った。
ブルーオシアヌスの香りが部屋中を満たす。とろりとした感触を感じるのと、後ろに押し入ってくる長い指先を受け入れたのは同時だった。せまい窄まりは、すでにカノンの指のかたちを覚えてしまっていて、探られかけるだけで、中心へ一気に熱がたまってゆくのを感じた。
拡げるというよりは、指で穿つのに近い。一気に奥まで貫くと、中で深く鋭く掻き回す。爪先で引っ掻かれ、追い立てられる高揚感に、ミロの腰が大きく跳ねた。じれったくて身を捩る。この先がまた長い。
「はっ、……あ、あっ」
舌先で乳首を転がされ、押しつぶされて、わざと音をたてて強く吸われた。湿った音が鼓膜を刺激して、それだけで下半身がずきずきと疼く。すでに透明な蜜で濡れはじめた屹立が、カノンの身体との間に挟まれて切なく脈打っている。
唐突に指を引き抜かれて、引き換えに、後孔へ押し当てられた猛々しい先端のせいで、くちびるからはついに甘ったるい声音が漏れた。
太刀筋はなめらかに、切っ先は鋭く。
律動は緩やかに優しく、時に急くように間断なく。
そんな風に繰り返し中をこすられると、期待と不満が、胸の内でせめぎ合う。
声と同様に、低くて甘いカノンの吐息は、吹きかけられるだけで身体の芯が震えた。貫く瞬間、一瞬寄せられた眉根には、男の精悍な色香が漂っていて、眼を瞑るのが惜しいとさえ思う。
カノンの腰に脚を絡ませ、ふくらはぎを押しつけて、もっととねだる。広い背にまわした指先が、以前つけた傷痕を探して彷徨った。確かめる頃には、深く抉られて奥まで突き入れられ、足の爪先が宙を掻く。これが欲しかった。
満ち足りたいと願うのに、終わらせて欲しくない。カノンも感じ入っていることを確かめたい。
願いを感じ取ったかのように、カノンは緩やかな抽迭を繰り返した。中途半端に出し入れされる、そのもどかしさに腰が震える。くちびるから絶え間なく嗚咽が漏れ、顎が震えた。繋がったところから生まれる淫らな水音は、二人の腹の間で苦しそうに張りつめているミロ自身を、いっそう泣き濡れさせた。
やさしすぎて足りない。息を吐く間もないくらい、もっと強く打ち付けて、欲しいと思い知らせて欲しい。
「カノン」
切なく名を呼んでやる。カノンにつたえるには、たったそれだけでいい。
だんだんと短い間隔で、ひたすらに穿たれる。突き上げる動きにあわせ、声音がいよいよ高くなり、懇願するようなあえぎに変わった頃、やっと限界が見えてきて、ミロはカノンの背に回した指先に、力をこめた。
抱き合ったまま、カノンの重みを受けとめていたら、額にやわらかなくちづけが落とされた。それから頬へ。口角へ。触れるだけのものから、絡めあうものまで、カノンはたぶん、キスが好きだ。
好きにさせておいて、カノンの髪を梳いてやると、カノンは大人しく身を任せてきた。ミロと違って癖の少ない艶やかな髪質は、やはりひどく触り心地がいい。カノンはよくミロの髪に触れるけれど、本当は、カノンの方こそこうされることを望んでいるようにも思えた。
カノンの背に指先を滑らせ、行為の最中につけた真新しい傷痕を確かめる。すでに血は乾きはじめているようだったが、ミロの爪に残る血の固まりが生々しい。
しかめ面をしていたら、今さらだろうとカノンに笑われた。それを合図に、カノンはゆっくりと身を起こし、ミロから目を離さないまま、手探りで、脱ぎ捨ててあった上着に袖を通す。
明日、ミロは非番だが、カノンはいつも通り聖域内での任務がある。ソファの上に横たわったまま、身支度する姿を無言で見つめていたら、カノンが思いついたように振り返った。
「デスマスクに」
昼間の話の続きだろうか。急に降って湧いた同胞の名に、ミロは静かに聞き入った。
「やるならもっと上手くやれと、言われたのだが」
「……何の話だ」
訊ねると、カノンが少し間を置いたので、言い出しづらい話なのだろうとは予想がついた。ごくめずらしいことに。
「香りで勘づかれたようだ」
「……何に?」
嫌な予感がした。ミロの問いには答えず、カノンが息をついた。
「別に隠すつもりはないと話したのだが、おまえの方はどうなのかと思ってな」
そういうことかと、ミロは合点がいった。しかしそれでは、デスマスクでなくとも、たとえば勘の良いムウあたりには、とっくに勘づかれているのではなかろうか。
よく知らないとはいえ、カノンに任せきりにしていたのがよくなかった。そもそも、残り香なんて自分ではほとんどわからない。まわりはそんなにも気になるものか。これまで香水の類はつけたことがないし、他人の体臭もあまり気にしたことがなく、どうするのが正しかったのか、ミロにはさっぱりわからない。
「ミロ」
低い声がしたので顔を上げると、すっかり身支度を調えたカノンの、思いがけず真剣なまなざしがそこにあった。
「否定しておいた方がよかったか」
「……そうは言ってない」
「せめて別のものに換えるか」
床に転がったまま、放置されていたオーシャンブルーのボトルを手にとって、カノンがつぶやいた。だがもう手遅れだとは、ミロは言わなかった。それに何より、この香り自体は、嫌いではないのだ。
「必要ない」
カノンの手からボトルを取り返し、何となく残りの量を確認してみると、もう残り僅かなことに気がついた。さすがに、次もこれと同じものにしろとまで、注文はつけられないが。
「いいからもう戻れ。明日は早いんだろう」
ゆるんでいたキャップをしっかり閉めて、カノンの尻を軽く叩く。
カノンが笑うと、ブルーオシアヌスの香りが、いっそう濃くなる気配がした。