わだつみの王 00
うす暗く、灯り一つない通路を、極力足音を忍ばせながら、ミロはひたすらに渡っていた。
潮の香りと、湿った生あたたかい空気が、髪や肌にまとわりつく。こめかみから上頬をつたって、顎までをひと筋流れ落ちた雫が、首元の薄い皮膚を無遠慮に打ち、その冷たさに思わず身震いする。露出した肩と二の腕の温度を手のひらで確かめると、ぞっとするほど冷え切っていた。
うらはらに、どうしようもなく喉が渇く。口の中はからからで、唾液や粘膜までも、すっかり渇ききってしまっていた。息をするたび、喉の奥がひゅうひゅうと鳴るものだから、いちいち煩わしくて仕方がない。焦燥と苛立ちで、ミロは小さく舌打ちした。
やがて前方に、通路の終わりを告げる大岩の一枚扉が見えた。息をひそめ、ミロはこれまで以上の慎重さで、そっと音もなく扉を押し開いた。
真白い閃光に眼を焼かれる。そこはまるで光を一所に集めたような、白亜に輝く大広間だった。静けさに包まれた重厚なホールは、開放感のある吹き抜けになっており、絨毯が敷かれた中央通路の両脇や、二層へと続く階段の踊り場には、見覚えのあるアシンメトリーのギリシャ彫刻が鎮座している。
本来であれば、客人を迎える第一の要所として、目を楽しませてくれるものなのだろうが、招かれざる客であるミロにしてみれば、そのように感じられるはずもなかった。
その静寂をやぶるように、突如としてせわしない足音がホールを満たした。とっさに息を殺して、柱の影に身をひそめる。何ごとか怒号を飛ばしながら走り去ってゆく複数の男たちは、どうやらただの雑兵のようだ。
遠ざかってゆく気配をやり過ごし、完全に姿が見えなくなったことを確認すると、ミロはようやくまともに息をつくことができた。
悲嘆に明け暮れているような時間はない。何かの間違いであって欲しいという、希望的観測はとうに捨てた。けれど、せめて叶うのならば、一つだけ。
蠍座の黄金聖衣。
あれだけは、何としても探し出さねばならない。よもや失ったとは考えたくもないが、いずれにせよこのままでは、女神の御前に参じることもできはしない。もっとも今後、その機会が訪れてくれればの話だが。
硬質な靴音を高らかに響かせ、次第に距離を詰めてくる、堂々たるその覇気に、ミロはくちびるを噛みしめた。隠しようもない強大な小宇宙は、自分と同格か、それ以上か。そのどちらだとしても、聖衣もまとっていない今、どう考えてもこちらの分が悪すぎる。
無様に逃げ回るのは性に合わない。無理矢理引きずり出されるくらいなら、みずから姿を晒す方が幾らかましか。
意を決して、膝に力をこめると、ミロはその場から一歩踏み出した。
神殿の奥深く、石造りの暗い通路の一角に、その部屋はあった。
床には贅をこらしたビロード織の絨毯が敷かれており、室内の中央には、御影石の丸テーブルとチェアが二脚置かれている。それらを取り囲むようにして、大理石でできたいくつもの書架が、天井高くまでそびえ立っていた。
テーブルと同じ、白く硬質なチェアに腰掛けた青年は、長い脚を気怠げに組みかえた。静謐な空間を支配しているのは、断続的に紙面をめくる音と、かすかな息遣いだけだ。
秀でた額と眉、優美な目元は、一瞬女性と見紛うほどだが、そのまなざしは険しく、鋭い。きめの細かい肌は若さに満ちあふれているが、風格を備えた厚みある体躯からは、そぐわない老獪さが滲み出てもいた。
もう何時間こうしているのか、時の経過を気にしたことのない彼にはわからない。どれだけここに籠もろうが、咎めに来るような者はいない。許可なく立ち入らぬよう触れを出しているせいもあるが、そうでなくとも、青年の行動についてとやかく言える人物は、この神殿には一人として存在しないのだった。
テーブルの上に広げられた書物は、いずれも厳めしい装丁で、目を凝らしてみればそのどれもが、難解な古代文字や象形文字といった、常人にはとても読み解けないような字面で埋め尽くされているのがわかる。
それをよどみなくめくってゆく長い指先が、ある一点でぴたりと静止した。指し示す箇所を、音もなくつとなぞる。
『火のように輝く』
脇へと追いやった硝子細工の燭台の灯芯が、ちりりと音をたてた。揺れる焔が、青年の端正な横顔をシルエットにして石壁へ映し出している。
しばらく息を殺したのち、頁にしおりをはさむと、本を小脇に抱え、青年は静かに腰を上げた。今宵はここまでのようだ。
去り際、部屋に唯一備えつけられた窓の外へ視線を移す。ぶ厚い硝子を嵌めこんだ大窓は、黒い鉄格子で覆われており、外の様子は見えにくい。だがよく目を凝らせば、ゆらゆらと定まらない宵闇の中、いくつもの気泡が生まれてはくるくると小さな螺旋を描いて舞い、やがて小さくなっては消えを繰り返しているのがわかる。
ここにいると、本来の青の色を忘れそうになる。
その色に、一度命を奪われかけた身としては、幸か不幸か。だが少なくとも、不幸なばかりではないのだろう。青年が、今この神殿に君臨していられるのも、その甲斐あってというべきか。さらに、この深淵でしか知り得ぬ秘密に、手を伸ばすことができたのも。
「……火のように輝く」
暗い銅色に輝く甲冑を見下ろすと、青年はその言葉を、もう一度まじないのように繰り返した。
繊細なところを決して傷つけないよう、いっそ馬鹿丁寧とも呼べる慎重さで、カノンの指先はミロの熱を暴いてゆく。
痛みを与えることを畏れているみたいに、緩やかな抽迭を繰り返す。そんな風にするのはよせと、もう何度抗議したか知れない。聞き入れられたことは一度もなかった。
言葉に耳を傾けはするが、それだけだ。カノンは、いつも黙ってミロを見やると、なだめるように優しいくちづけを幾度も落としてよこす。今、この瞬間にも。
違う。そんなキスが欲しいわけじゃない。壊れ物をあつかうように触れて欲しくない。
かぶりを振ると、伏せられていたカノンの碧い瞳がちらと動いた。閉ざされた膝が、そっと右の手のひらに押さえつけられたかと思うと、静かに横へ払われる。
熱を集めてとうに泣き出している中心と、ほぐされてすっかり充血した秘奥の具合をうかがいながら、カノンは一度だけ、その長いまつげを瞬かせた。ミロが感じ入っているのを確かめようとしているのだ。
羞恥で頭がどうにかなりそうだった。できることなら、その麗しい額を思いきり蹴倒してやりたい。だが、こんなことをゆるしたのはそもそも自分で、今さらと思われるのも癪に障る。いいからさっさと終わらせて欲しい。いや、終わらせて欲しくない。
葛藤は、そこですぐさま中断させられた。ひくつく後孔へ、二本目の指先が押し当てられたせいだ。難なく侵入を受け入れたそこは、逃すまいと、窮屈そうに収縮を繰り返した。ぬめりを帯びているせいかと思ったが、与えられる快楽を知っているからなのだと、すぐに思い至る。
内壁を圧迫する異物感には、未だ慣れることはない。けれどはじめの頃に比べればだいぶましになった。
緩急をつけた抽迭を繰り返しながら、カノンがミロの右膝へくちづけた。ぶるりと背すじに甘い痺れが走り、身体が魚のように跳ねる。膝がわななき、胸郭が震えて、浮かせた腰は、カノンの指先をいっそう深く導いた。
予期していたことなのか、カノンは気にもとめず、ミロの膝から内太腿にかけて、緩慢な所作で舌を滑らせた。香油で濡れた手のひらは、面積を広げるようにして、ミロの肌をさすらってゆく。
あらぬところで感じ入ってしまうのは、屈辱だ。
だがそれは羞恥心を煽ろうとするものではなく、どうやらカノンの嗜好なのだと知ってから、ミロはあまり口を挟めなくなってしまった。
「……く、ぅ……っ」
太腿の付け根や裏側、会陰をかすめては離れてゆく、なめらかで熱い昂ぶりは、ミロ自身と同じくらいがちがちに張りつめている。それでもカノンは、思うまま、侵入を試みることはしない。
指の一本や二本では足りない。わかっているくせに、カノンは、ただじっとミロのゆるしを待っている。
もっと熱くて重たい欲望の塊を、痛みでも、何でもいいから感じたい。濡れた先端が焦らすように入口をこすっては離れてゆく、そのもどかしさに、ミロはきつく眼を瞑った。
「い、いから……、っ」
カノンは、ミロがいいと言うまで動かない。ならばどうすべきかなんて決まっている。
内側を探る指の動きが、次第に急いたものになってゆく。期待で、小動物のようにせわしない鼓動を刻みはじめるのは、いつだってミロの方が先だった。認めたくないことに。
「さっさと、よこせ……!」
逞しい肩口に、せまい額を押しつける。手を伸ばし、カノンの根本から先端までを一気に撫で上げ、侵入を促し、首筋と、それから顎に歯をたてた。
自分でそうして欲しくて導いたくせに、カノンを後孔で感じた瞬間、ミロは緊張で身体を強張らせた。腰が浮かされたのと、膝を折り曲げられて担がれたのは、どちらが先か――いや、同時だったのか。
直接的な刺激がなくても、もう、十分にいけるほどには慣らされた身体だ。知っているはずなのに、カノンの手はやんわりと、張りつめたミロ自身を握り込んだ。新たに送りこまれる快楽の波は、ミロの熱をよりいっそう煽ってゆく。
「あ、あっ、はっ、ああ……ッ!」
できるだけ痛みを与えないように、けれど確かな鋭さで、鋼の刀身はミロの肉を斬り拓いた。ミロの呼吸がととのうまで動かず、少しずつ進んではとどまり、そうして、深く沈むための一瞬の時を待っている。
「……ん、あ、――あ、……、んっ……」
痙攣していた筋肉が、やがて落ち着きを取り戻し、抵抗を弱めていくまで、さほど時間はかからなかった。弛緩しはじめたミロの身体を確認すると、カノンはゆっくりと律を刻みはじめる。
「……まだ、辛いか?」
うるさい、そんなことを今さら聞くな。
辛くないわけがないだろうと悪態をついてやる代わりに、ミロはカノンの首裏に素早く手を回した。じれったくて、こすりつけるように腰を旋回させると、カノンが僅かに歯を食いしばったのがわかる。
意趣返しできたと思ったのに、それも刹那のことで、勢いづいた屹立は、容赦なくミロを穿ち、シーツとの摩擦でやけどしそうなほどに、揺さぶられた。これ以上深くつながれないと思ったのに、尻の肉をつかまれて引き寄せられれば、思わぬ結合の深さに、総身が喜悦でわなないた。
こうなるともう止まれない。加速してゆく不埒な律動と、身体の芯から燃え焦がすような熱情。
ミロ、とかすれた声に名を呼ばれた。切羽詰まったその響きに、胸に燻る苦くて切ない感情が、堰を切ってあふれ出しそうになる。
名を呼び返そうとしたのに、歯の根があわなくて、うまく言葉にならなかった。カノンの首裏が熱い。硬度と体積を増してゆく昂ぶりを感じながら、むず痒さにも似た心地よさに身を任せる。そうなれば、ミロのくちびるから漏れるのは、もはや熱にうなされたようなあえぎ声だけだ。
だから結局その名を呼べたのは、鋭く達したあと、カノンがおのれを引き抜こうとしたので、許さず、ミロがその背を抱きよせた時だった。
石鹸とも違う、さわやかな香りが鼻をつく。
ベッドの脇に置かれたサイドボードの上に、オーシャンブルーのボトルが見えた。空、海、水、氷、この世の青をすべて集めたような、不思議な色合いだ。
女ではないので当然濡れないから、行為に及ぶ際、潤滑油はほぼ必須だ。できないわけではないのだろうが、カノンがいい顔をしない。ミロはといえば、カノン以外の同性と寝た経験がないので、そういうものかと、頭の隅で理解した気になっている。
ボトルのラベルから読み取れるのは、『海を渡る風のような』。そういう表現の仕方もあるのかと、妙に感心した心持ちになって、ミロはぼんやりと霞む視界の中、自分を組み敷く男の顔を眺めやった。
「ブルーオシアヌス」
ミロの耳朶に頬を寄せ、カノンがささやいた。髪の間に差し入れられた手櫛が、もうずっと、ミロの金糸を梳いている。
「海神の名だ」
優しい手つきと低い声音が、何ともいえず心地よい。けれど何となく知られたくなくて、ミロはわざと大きく首を傾げてみせた。
「ポセイドンではなく?」
「別に、神の二つ名などめずらしくもないだろう。ケルト神話では、マナナン・マクリールともいう」
「……おまえから、神についての講釈を聞ける日が来ようとは」
嫌みのつもりで言ったのに、思いのほか楽しそうに、カノンが笑った。