わだつみの王 02
主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」
と言われた。
(旧約聖書『創世記』 / 六章 五〜七節)
壁に掛けられた古いフレスコ画や、ペルシャ織のタペストリー、華美な彫刻が施されたオークテーブルとアームチェアは、いずれもサガの趣味によるものだと聞いた。ルネサンスとかバロックだとか、ミロはそういった方面にてんで疎いのでわからないが、自分では蒐集することのない装飾品や家具を見るのは新鮮だったし、脚の部分に丸みを帯びた黒檀のテーブルや、象眼模様が彫り込まれたチェストは、素直に美しいと思える。
何より、この重苦しい空気のただよう空間に、それらはとてもよく馴染んでいるように見えた。
「ミロ。これも頼む」
呼ばれて振り返ると、テーブルの上に山と積まれた書物の上へ、もう二冊ばかりが追加されたところだった。頼むと言いつつ、声のあるじはミロの方を見向きもせず、手元にある書面の上でさらさらと羽根ペンを走らせている。室内をひかえめに照らす光源が、ととのった面差しをやわらかく映し出していて、ミロは一瞬、その姿を彼の兄と見紛うた。
「……こちらがまだ終わっていない」
「終わってからでいい」
反応を予想していたのか、セリフの語尾に被せるようにして返答があった。そのふてぶてしさに、ミロは思わず眉根を寄せるが、結局黙って作業を続けることにした。ここでむきになって食い下がっても、どうせろくなことがないのだ。
教皇宮の書庫にある、膨大な量の書物や書類の仕分けを、ここのところ黄金聖闘士が持ち回りで行うことになっていて、ミロは今朝からカノンと二人、埃っぽい部屋に籠もっている。
聖戦後、復活を遂げた黄金聖闘士全員が聖域にとどまっているかというと、そうではない。牡羊座のムウは修復士としてジャミールに居を構えているし、天秤座の童虎は基本五老峰に根を生やしている。射手座のアイオロスと獅子座のアイオリア兄弟は、聖闘士候補生の人材発掘を請け負って世界各国を飛び回っており、水瓶座のカミュは、相変わらず聖域と東シベリアとを往来する日々だ。
そうなると、ローテーションに加わる黄金聖闘士は自然と限られてくるわけで、聖域に常駐するミロなどは、この一週間で二度も当番に駆り出されていた。
文官や書記官にやらせればよいという声があがらなかったわけではない。だが、教皇宮に保管されている書物には、禁書や密書といった文書が多く含まれるため、扱える人間は少数に絞るべきというサガの主張に、口を差し挟める者はいなかった。密な情報を共有することで、黄金どうしの結束が深まるかもしれんなどという、何とも無責任なシオンのひと言も、サガの意見を後押しする形となった。
書庫の内部は小ぢんまりとした円形状になっており、中央にある円卓を囲むようにして、四人掛けのテーブルとチェアが計四組配置されている。それらを取り巻くように、ぐるりと壁面に沿って並んだ書架には、遙か昔の蔵書から新書に至るまでがぎっしりと収められていて、なかなかに壮観である。中二階へと続く階段が梯子なのも、聖域らしいと言えばらしい。もっともミロとしては、梯子を見るたび、ひらりと飛び越えてしまいたい衝動に駆られるのだが。
円卓以外のテーブルは、作業中は大量の書物に占拠されている。各テーブルの上に平積みになっている書物を、まずはカノンが適当に取り分けて(いるようにミロには見える)、背表紙のラベルと中身を確認し、相違のないものだけが、キャスター付きのワゴンの上に積み上げられていく。ラベルは、史学、哲学、地理学や天文学をはじめ、建築、制度、法令や名士など、分野ごとに細かく分類されており、書架にもあらかじめラベルに応じた記号と数字がふられている。
ミロの仕事は、書架の棚へそれらをしまう単純作業だ。頭を使わないルーチンワークなので、本来ならばあっという間に終えてしまうのだが、いかんせん量が半端でなく、また、カノンの仕分けが鬼のように早い。少しでも気を抜けば、すぐにいくつもの山が出来上がってしまうため、ミロの手が追いつかなくなってくると、カノンも腰を上げることになる。慣れぬ作業とはいえ、できればそれは避けたかった。
カノンは、このローテーションが開始される以前から、書庫の整理を担っており、今や聖域の司書官を兼任しているといってもいい。ラベリングも書架の振り分けも、すべてカノンによるもので、書庫での作業は常に『カノンと誰か』の二人一組で行われることになっていた。
人事は本人の希望ではなく、女神の抜擢によるものだったが、意外と性に合っているらしく、ミロが見る限り、これまでにカノンが退屈そうな様子を見せたことは一度もなかった。
カノンは基本的に、作業中は言葉少なである。ミロが書庫の整理を手伝うようになってから、そろそろ半月あまりが経過するが、カノンと交わした言葉は数える程度だ。会話はいずれも必要最低限、しかも事務的なものばかりで、どのような内容だったか、ミロもあまり覚えていない。作業に手間取れば、どんな揶揄が飛んでくるのかと思いきや、カノンはただ、それはこうした方がいい、こんなやり方があるとか、至って真面目にミロへ作業工程を教授した。淡々と作業をこなす様子から、女神に指名された手前、特別気負っているわけでもないらしい。他所で会う時とはまったくの別人を思わせるその姿に、はじめのうち、ミロは若干戸惑ったものだ。
けれど今日のカノンは、いつもとどこか様子が違っていた。カノンはこうして盗み見られているとも知らず――それとも、そうと知って無視を決め込んでいるのか――先程から、いつになく熱心に何かの書面と向き合っており、手を休める気配がない。よほど急を要する作業ということか。
だとすれば、ますますもってカノンの手を借りるわけにはいかなかった。
ワゴンの上に積まれた書物のラベルをざっと確認する。苦手な地理学だったが、好き嫌いを言っている状況ではないので、仕方なく該当する書架を探す。ちなみに得意とする天文学は、過日、シャカによってすべて規定の書架に収められており、残念ながらミロの出番はなかった。
目的の書架は、カノンが作業台として使っているテーブルから見て、ちょうど真向かいにあった。カノンが書面に没頭していて、仕分けが中断されている今が好機である。仕掛かり中の書架の整理を終えると、ミロはようやく、カノンに頼まれた書物の山へ手を伸ばした。
書架にふられた記号を確認し、空いている棚へ、できるだけ一度に多くの本を詰め込んでいく。著者が同じものを隣り合うよう意識する以外は、ほぼ無心で良かった。仕分けの段階で、カノンによってすでにある程度分類されているからだ。
隙間だらけだった広い棚が、色も厚みも背の高さも異なる、さまざまな書物で埋め尽くされていくさまは、足りないピースをパズルに当てはめていく作業のようで面白い。
ミロはあらためて、目の前にある巨大な書架を仰ぎ見た。黄金聖闘士の中でも、長身の部類に入るミロが、見上げるほどの高さにもなる書架は、こうして見るとかなりの威圧感がある。
書庫の整理を行うにあたり、古い書架はみな一新されたと聞いているが、強度は確かなのだろうか。これではあの小さな女神が苦労されるのではという思いが、ふと頭をよぎる。
ワゴンの上に目をやると、残された書物はあと僅かになっていた。その一番上に積まれた、革張りの表紙の本を手に取ってから、ミロは小さく首を傾げた。
本には題字がなかった。背表紙を確認してみても、やはり何も記されていない。
無造作に頁を繰ってみる。本には癖がついており、しおり代わりのつもりか、中には一枚の紙片が挟まっていた。
紙片を取り除くのと同時に、ミロの眼は、開けた頁のとある箇所に、自然惹きつけられていた。
主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」
と言われた。
あまりにも有名な、ノアの方舟の一節である。
旧約聖書によると、かつて、地上の人間の罪深さが神の怒りにふれたため、神はこれを滅ぼそうと決めた。四十日四十夜続いた洪水は、やがて地上を覆い尽くし、生きるものの大半を死に至らしめた。方舟に乗り難を逃れ、生き残ったのは、神に選ばれた『正しき人』ノアとその妻子、それからすべての動物のつがいであったという。
四十日四十夜。
海皇が鱗衣をまとい復活した時、地上に降り続く雨が、世界を覆い尽くすといわれた刻限と同じだ。女神は降雨を少しでも食い止めるため、メインブレドウィナと呼ばれる柱に籠もった。多くの罪のない人々が命を失った。カノンの野望のために。
背後で椅子を引く音がしたので振り返ると、新たに出現した山の向こうに、カノンの端整な顔立ちが現れたところだった。いつの間に仕分けが完了したのか、テーブルの上に無造作に積まれていた書物が、今やラベルごとに整然と並べ替えられているのがわかる。
タペストリーと同じペルシャ織の絨毯の上を踏みしめ、カノンは、ことのほかゆったりした動作で、ミロの傍へと歩み寄った。
「追加だ」
差し出された本は、ミロの知らない言語で書かれた書物だった。題字を見ても、それが地理学なのかどうか、ミロにはとっさに判別できない。これを短時間でそうと見極め、仕分けをこなすカノンの頭は、いったいどういう構造をしているのだろうか。
「この書架で合っている。そのためのラベルだからな」
諭すようなカノンの声に、ミロはあからさまにむっとした。別にカノンの仕事を疑ってなどいない。わかるまいと、最初から決めつけてかかるような物言いにも腹が立った。
「わかっている」
革張りの本を小脇に抱えると、ミロはわざと乱暴にカノンの手から本をひったくり、書架へ無理矢理本を押し込んだ。サガやシオンあたりに見つかれば、間違いなく大目玉を喰らうところだが、都合良く、ここにはミロとカノンの二人きりである。
ミロが見つけた題字のない本に、カノンが興味深そうな眼を向けたのがわかった。訊ねられる前に、ミロは口を開く。
「聖書のようだ。なぜこんなところに紛れているのかわからんが」
聖域において、聖書は教養書の類に分類される。ギリシャ神話における全能神はゼウスだが、ギリシャの国教はギリシャ正教――つまりキリスト教の教派である。女神が排他的な措置をとるはずもないので、聖闘士候補生から雑兵にいたるまで広く頒布されており、ゆえに特別書庫で保管するようなものではない。
「ラベルは」
「……ない」
正式に書庫へ保管登録されているものならば、背表紙にラベリングが施されているはずだ。言われてみて気づき、ミロは確認を怠った自分に少しだけ失望した。
「預かっておく。私物が紛れ込んだのかもしれん」
言うが早いか、伸びてきたカノンの手が、本を素早く攫っていった。いつになくせわしないその所作に、どこか違和感を覚えつつも、だからといって、かける言葉も見あたらない。
手持ち無沙汰になり、思いついて、手に残された紙片を開いてみる。そこには紙面いっぱいに、解読不明の文字が並んでいた。ミロの知る言語ではなかったが、誰かの直筆で、よほど慌てていたのか、殴り書きらしいことだけはわかる。
「それは?」
「聖書に挟まっていた」
今度は奪われる前に手渡した。一瞥したカノンは、あとでサガへ報告すると言って、紙片を再び聖書に挟み込んだ。
カノンが、ほんの僅か眉を動かしたその一瞬の表情の変化を、しかしミロは見逃さなかった。
「読めるのか」
何気なく放ったひと言だった。別に返事を期待してのものではない。ミロはただ、素直に感心しただけだ。紙面に記されていた文字は、少なくとも、日常で使われる類の言語ではなかった。読めないし書けもしないが、それくらいは何となくわかる。
「まさか」
いつもの調子でカノンが笑った。そろそろ休憩にしよう、何か食いたいものはあるか。そのようなことを聞かれた気もするが、ミロはその場に立ち尽くしたまま、生返事しか返せなかった。
カノンが嘘をついた。
わかってしまうのは、近くなりすぎて、これ以上縮まなくなってしまった距離のせいか。
カノンの笑みを、気持ち悪いと感じたのは初めてだった。
一九七九年七月 深夜 海底神殿
『――それは火のように輝く、生きた深紅の波紋を抱く金塊である。東方の古代書によるとヒヒイロカネ、またはアポイタカラとも記されている。』
火のように輝く、生きた深紅の波紋とは、おそらく陽炎のことだろう。東方とは、ここでは東アジアの島国のことを指す。すなわち、日本国だ。
緋緋色金、青生生魂。見慣れない字面だが、古代ルーン文字やくさび形文字に比べれば、まだなじみがある。
霊銀はミスリル、金剛はアダマンタイト。
名称については諸説あるようだが、それはさしたる問題ではなかった。ここにきて、ようやくそれらしい単語が出てきたことに、心音が僅か早くなる。
神秘的な。
架空上の。
失われた。
どの書物でも必ず一度は目にする形容詞だが、頁を繰る音は、次第に急いたものになってゆく。
だが、最後の頁までくまなく目を走らせても、結局求める情報は得られなかった。つまり今夜もまた、作業は徒労に終わったということだ。
もう、これに用はないだろう。
元の書架へ静かに本を戻すと、青年――カノンは一つ息を吐いた。
今宵この部屋に来てからどれだけの時間が経過したのか、頓着しないカノンにはわからない。最初からそうだった。ただ、越えた夜を数える。それだけは忘れたことがなかった。昔から。
神にも等しい力を持ちながら、双子の兄はいっとき、次席に甘んじようとした。
真っ黒にとぐろを巻いた欲望を、無理に押し込めようとした反動は、他ならぬ兄自身に跳ね返り、それでも結果として、彼は望んだ地位を手に入れた。
失った代償はいかほどのものだったのか、それは誰にも――恐らく、兄自身にもわからない。
半身のことを想うと、今は憎しみや怒りといったものよりも、憐れみや蔑みに近い感情が胸を占める。同時に、あの時兄をそそのかした自分は、やはり間違ってはいなかったのだという確信が得られ、どこか気持ちが昂ぶった。
サガ。せいぜい宿命とやらに翻弄され、足掻くがいい。
俺はおまえとは違う。もっとわかりやすく、他者を圧倒する力を手に入れる。
そのために、探さなくては。
『伝説の大陸アトランティスに伝わる、かの有名な金属。
人はそれを、オリハルコンと呼ぶ。』