聖域より愛をこめて 3
聖域には、夕刻から激しい雨が降りそそいだ。しばらくぶりの恵みの雨は、土埃で乾いた石畳や石柱を穿ち、その色を濃く変えた。
常であれば闘技場から聞こえてくる喧噪も、今ばかりは、うるさいほどの雨音に取ってかわられている。雨期でもないのにめずらしいことだ。
大粒の雨に打たれながら、天蠍宮へ戻ったミロを待ち構えていたのは、双子座の黄金聖衣に身を包んだカノンだった。宮の入口手前に併設された石造りのひさしの下、雨宿りでもするような気軽さで、カノンはそこに佇んでいた。
どれくらい前からそうしていたのか、濡れた様子がないので、少なくとも、雨が降り出す前に天蠍宮へ到着していたのは間違いない。
「終わったのか」
籠もったような、深みのある低い声は、激しい雨音の中にあっても、はっきりとミロの鼓膜を震わせた。
頭のてっぺんから髪を濡らし、地肌を通して降りてくる水滴が、ミロの額や鼻筋をたどり、くちびるから顎をつたってとめどなく流れてゆく。外套が大量の水を吸って、ミロの背へ重くのしかかった。秋雨だというのに、つたう雫は生あたたかく感じられ、まるで涙みたいだとミロは思った。
「……何の用だ」
天蠍宮へ足を踏み入れることはせず、カノンが待つひさしの手前で立ち止まると、精一杯の素っ気なさを装って、ミロは訊ねた。
「用がなくとも、オレは好きな時にここへ来る。……そんなことは、前から知っているだろう」
カノンに指摘され、そういえばそうだったと、ミロは他人事のように思い出した。まつげの上にたまった透明な雫が、瞬きを繰り返すたび、頬を弾いてぽろぽろと零れ落ちてゆく。
たった今、おまえの兄からわけのわからない話を聞かされたばかりだと、うそぶいてやったら、カノンはどんな顔をするだろう。
けれど実際のところ、サガが話していた内容の半分さえも、ミロには思い出せなかった。話の要領を得なかったせいもある。結局サガは何が言いたかったのか。少なくともミロにとって、愉快な話でなかったのは確かだ。
カノンに起きた変化を、サガは何と言っていた?
雨音は鳴り止まず、紗のカーテンのように二人を隔てる雨と、水滴で滲む視界のせいで、こんなに近くにいても、カノンの表情はうかがい知れなかった。だが、今はそれがありがたくもある。
雨煙る中でも、ひときわ強い輝きを放つ双子座の黄金聖衣を、ミロはぼんやりと眺めやった。
聖衣も髪も外套も、惨めなほど濡れそぼった自分とは違う。どこか冷厳な輝きを放つ双子座の黄金聖衣は、文字通りひどく冷たそうで、見ているだけで身震いがした。
雨脚はさらに強くなり、横殴りとなって、露出したミロの二の腕を痛いほどに打った。黄金聖衣は水滴こそ弾いてくれるが、水を含んで重たくなった金の巻き毛と、大腿を覆う濡れた薄布が肌にまとわりつく感触は、ミロの背へ寒気を走らせた。
ひさしの下から素早く進み出たかと思うと、聖衣ごと濡れるのも厭わず、カノンは、驚くほど強い力でミロの腕を捕らえた。引き込まれそうになり、思わず踏みしめた足元が、水捌けの悪い場所だったのか、ぬかるみでもないのに滑りそうになる。
驚いたのと、それ以上に警戒するあまり、ミロは負けじと強い力でその手を振り払った。捕らわれた右腕は、思ったよりあっけなく解放された。
二人の身体を容赦なく刺し貫く雨の槍は、黄金色の輝きに弾かれ、その矛先を幾重にも分かつ。打たれたのは一瞬でも、カノンの全身はあっという間にずぶ濡れになった。
けれど近づいた分だけ、今は、その嫌みなほどに整った顔の造作がよく確認できる。濡れてまぶたの上にまとわりつく長い前髪を払おうともせず、カノンはそこに立ち尽くしていた。
「……任務明けだろう。呆けてないで、もっと身体を労ってやれ」
カノンはどこまで何を知っているのか。不眠不休を悟られるような真似はしていないはずだが、カノンがミロの身体を、いつも以上に気にかけているのは明らかだった。けれど年上らしく、何もかもわかったように響くその声が、今はただミロの癪に障る。
「飯は食ったのか?」
的外れで、どこか暢気なカノンの問いに、ミロはどうしようもなくいらいらした。耳をつんざくひどい雨音が、カノンの声だけをかき消してくれないのは、聞こえぬふりをしてやり過ごそうとしたおのれへの罰か。
「急ぎの任務だったと聞いた。どうせ、飲まず食わずでここまで来たんだろう」
ミロはくちびるを噛みしめた。だったらどうだというのだ。
「おまえに関係ない」
そう言い放った瞬間、カノンの表情にほんの僅か苛立ちが滲むのを、ミロは確かに感じ取った。けれどそれも一瞬のことで、カノンはすぐにいつもの冷静さを取り戻していた。
「ミロ。何に対して腹を立ててる?」
「何もない。オレはもう寝る。去れ」
かぶりを振りながら早口に告げても、カノンは眉一つ動かさない。そしてもちろん、大人しく去る気配もない。
いつもそうだ。ミロがどんなにまなじりを険しくつり上げても、カノンはせいぜい肩をすくめる程度で――だからその余裕が――気に入らないというのに。
カノンがゆったりとした所作で両の腕を組むと、黄金の小手と胸甲がぶつかり、無機質な金属音が、雨音に混じって辺りへ響く。
いつもならどうとも思わないその仕種が、今はひどく高圧的なものに感じられ、ミロはわざと大きく舌打ちした。
「あの夜のことなら、オレは謝らない」
「謝って欲しくなどない!」
ミロの上擦った声音が雨音を割る。カノンが、やはりなとでも言いたげに、わざとらしく息を吐いて見せたので、釣られたのだということに、ミロは気がついた。
「何を拗ねてる。ガキじゃないんだから、言いたいことがあるならはっきり言え」
「拗ねてなどいない。誰がガキだ」
「それがガキだと言うんだ。態度だけで示してわかってもらおうなどと、甘ったれるな」
「わかってもらおうなどと思わない。いいから出て行け」
「あいにくここは天蠍宮の外だ。オレがオレの意思でどこにいようと、おまえには関係ない」
今のはあきらかに、ミロへ対する嫌みだ。そう思うと悔しくて、激しい怒りがミロの胸の内に湧いた。
思えば、カノンとこれほどの舌戦を繰り広げたことがあっただろうか。ミロの記憶する限り、恐らく初めてのことだ。
声こそ荒げないものの、カノンの舌鋒は鋭く、また容赦がない。だがそんなことよりも、ミロは今、早く一人になりたかった。カノンがいない場所へ、一刻も早く逃れたい。それが、聖闘士として恥ずべき行いであるとわかっていても。
「――去れと言っている!」
ミロの身体から、怒りの小宇宙が陽炎のように立ちのぼった。威嚇したつもりだったのに、カノンはまったく動じる気配がない。どころか、うつむき加減で小刻みに肩を震わせている。
それは笑いをこらえているようにも、こらえようとして失敗したようにも見えた。
「何がおかしい」
カノンはなおも腕組みのまま、小さく肩を揺らしている。
ひどい既視感だ。こんな風に、ミロは幾度、カノンへ訊ねてきただろう。
カノンはいつだって、ミロを見ては、その綺麗な顔に、底知れぬ笑みを浮かべていた。時として傲慢なほど不遜に。また別の日には、穏やかに優しく。
けれど今、それを懐かしむ気持ちには、なれそうもない。
だからミロは、わざとカノンを煽る言葉を選んだ。
「おまえは嘘つきだ」
「……何だと?」
「変わらなくていいと言ったくせに――こうなることはわかっていただろう」
八つ当たりだとわかっていても、言わずにはいられなかった。カノンを見ていると、もう、すべてを吐き出してしまいたい、その権利が自分にはある、そんなどうしようもない思いが胸にこみ上げてくる。
唐突だったのに、カノンは、ミロの言わんとするところを正しく理解したようだった。
「……嘘じゃない。変わって欲しくて言ったわけではない」
弱まった語調から、僅かな戸惑いが伝わってきて、カノンが、少なからず傷ついたのだと知る。いい気味だ。もっと傷つけばいいと思ったのに、続くカノンのセリフに、ミロはめまいを感じるほどの怒りを覚えた。
「どんなおまえでも、ミロはミロだろう」
ミロはもう少しで、カノンの頬を思いきり打ち据えてやるところだった。
何を勝手なことを。いったい誰のせいで、こんなことになったと思っている。
どんなおまえでもだなどと、軽々しく口にされたくはなかった。当事者たるカノンにだけは。
「ミロ、聞け。オレは、」
「嫌だ」
力の限り、ミロは声を振り絞った。
「オレは変わりたくない」
こんな短いセリフさえも、腹に力をこめないとろくに吐き出せない自分が惨めで、いっそ笑い出したくなる。
「おまえを見ているといらいらする。オレを煩わすな」
本当はもう、ずっと前から、ミロは気がついていた。
カノンの表情や仕種、言葉一つで、こんなにも心掻き乱される自分は、なんと愚かしく、無様なことか。こんな自分は知らなかった。カノンに会うまでは。
予感はあった。できることなら気づきたくなかった。けれど気づかされてしまった。カノンの、勝手で、一方的な告白によって。
言葉にせずとも、惜しみなくそそがれるカノンの情感は、いつだってミロの手に余る。まるで湯水のようにあふれて、やがてすべてを浸食するような――そんな想いは。
「これ以上オレを振り回すな」
耳うるさく入ってくる雨音も、もう気にならなかった。全身が燃えるように熱かった。濡れたそばから、水分が蒸発してしまいそうなほどに。
「……そうか」
ややあって返されたカノンの短いいらえは、今までに聞いたどんな声よりも、低くて深い、ひどく穏やかなものだった。
「なら、これで終わりにしてやろうか」
この関係を終わらせる。そういうこともできるのだ。今の今までその考えに思い至ることができなかった自分へ、ミロは軽い衝撃を受けた。
いや違う。その選択肢はいつだって頭にあった。けれどあの時ミロは、その一番シンプルでわかりやすい方法を選べなかった。
カノンと会うのをやめたくないと願い、カノンはそれを受け入れた。力任せに抱きしめられて、居心地は悪かったが、つたわる熱を不快だとは感じなかった。
それはつまり、カノンとの関係を終わらせたくないと願う一心で、みずからが選び取った結論ではなかったか。
「――なんて言うとでも?」
一転して、悪戯っぽい笑みを浮かべたカノンが、すべてを覆すセリフを放った。かたちの良いくちびるの端が、大きく弧を描く。
聖衣がぶつかり、擦れ合う音がした。そうかと思うと、ミロの視界は輝く黄金色でいっぱいになる。カノンの腕の中に閉じ込められていることに、ミロは一瞬遅れて気がついた。
ミロを抱き寄せると、あの日サガの前でそうしたように、カノンはその身を強く掻き抱いた。純白の外套はびしょ濡れで薄鼠色に変色しており、いつもふわふわと揺れる金髪は、水滴を弾く力を失うほど濡れそぼっている。その髪に顔を埋めるようにして、カノンは深く息を吸いこんだ。声をあげて笑い出しそうになるのを、なんとかこらえる。腕の中でミロが苦しそうにもがいた。これも、いみじくもあの日と同じ。
「何を笑う……!」
笑いをこらえようとする振動が直に伝わったのか、ミロは少々毒気を抜かれたようだ。訊ねる声音が、少しだけ元のトーンを取り戻している。
「嬉しいんだ」
「はっ?」
ミロからは、間の抜けた返事が返ってきた。久しぶりに触れるミロの匂いを確かめるようにしながら、カノンは濡れた金糸へくちびるを寄せる。ミロがびくりと身を強張らせるのと同時、カノンは五指でミロの髪を縫い、絡ませ、それから地肌へと指を這わせた。蠍の尾を模した黄金のヘッドパーツが、カノンの指先を小さく掠めた。
「振り回すなとか、嫌だとか――以前のおまえなら絶対に言わなかった。ガキみたいに拗ねて見せるのもそうだろう。まったく、たいした心境の変化じゃないか」
変わらなくていいと言ったのは、嘘ではない。けれどそれは、ミロの変化を歓迎しないという意味ではない。
そしてミロ自身が感じているように、そうさせたのは他でもない、この自分なのだ。
そう思うと、もはやこらえようもなく愉快な気持ちになって、今度こそカノンは声をあげて笑いだした。
「笑うな!」
だがそれがミロの癪に障ったようで、転瞬、その爪先から赤い閃光がほとばしる。カノンは仕方なく、その身を腕の檻から解放してやった。
ミロは体勢を低くして素早く後じさり、片膝をついたままカノンを睨みつけた。常ならば軽やかに宙を舞うであろう外套も、今ばかりは水を吸って重くなっているせいで、ミロの身体にまとわりつくように流れた。
「ミロ」
「来るな。動けば撃つ」
スカーレットニードルの構えを取りつつも、ミロがカノンを眼光鋭く捉えたのは、ほんの一瞬だった。すぐさま、迷うようにカノンから目を逸らし、石畳へ視線を落としてしまう。
その程度の気概で、どうやって獲物を仕留めようというのか。指摘しようとしてカノンはやめた。今はこれ以上、話をややこしくすべきではない。
「おまえが言うような愛とやらは、やはりオレにはわからん感情だ。……そして知る必要もない」
うつむいたまま、ミロが吐き捨てた。そのセリフを合図に、雨脚がだんだんと弱まりはじめているのを、カノンは感じていた。
「わからないか。では、女神の愛はどうだ」
急に矛先を変えられたことに戸惑ったのか、ミロは一つ瞬きをした。それから少し考えるようにして、重たげにくちびるを開く。
「女神の愛は平等だ。この世に生きとし生けるすべてのものへ注がれる――いわば無償の愛だ」
「なら、その逆だと思えばいい」
ミロが首を傾げる。カノンの言わんとするところが、すぐには理解できないようだった。
「オレの愛は平等じゃない」
ミロの瞳が、ぱちぱちと二度瞬いた。
「人間なんてみな一緒だと思っていた。しょせんは皮一枚違うだけだと」
雨に濡れたくちびるを、なおも舌先で湿らせながら、カノンは慎重に言葉を継いだ。
「おまえだけだ」
何が、とはあえて言わない。
「無償でいいとも思わない。――この不平等な感情こそが、愛じゃないのか」
聖域の晴れた空、エーゲ海を思わせる青いまなざしが、一瞬、濡れるように輝き、そして確かに揺らめいたと思ったのに、交錯しそうになった視線は叶わず、あと少しというところで逃げられてしまう。
ミロがこれまでにないほど、動揺しているのは明らかだった。
わからないと、ミロがそればかりを繰り返すので、つい口にしてしまったが、カノンとしては、愛について偉そうに講釈をたれるつもりはないし、また、自分と同じ気持ちをミロへ強要したいとも思わない。ミロの心は、ミロ自身のものだ。そんなことはとっくに分かっている。
けれど言葉にすることで、ミロが迷うものに、少しでも何か解決の糸口を与えてやることができればと思ったのだ。
「目を逸らすな。オレを見ろ」
「黙れ」
動けば撃つと言いながらも、ミロは、カノンが詰めた分だけ距離を取り、さらにじりじりと後じさった。ミロが何かを恐れていることは、カノンにも何となくわかる。それが何に対するものなのかまでは判然としないが、この機会を逃がすわけにはいかない。やっと捕まえられそうな気がする。あとほんの少しで。
「来るなと言っている!」
ふたたび、ミロが指先に深紅の小宇宙を集中させた。そんな脅しにも、カノンはもうひるまない。一度は十四発まで受けた身だ。今さらどうということはない。
毛を逆立て、威嚇しているのはミロの方なのに、これではまるで、カノンの方がミロを追い立てているようだ。
そんなことにさえ、ミロは気づかない。
「ミロ」
「そんな眼でオレを見るな」
苦しげに放たれたひと言に、カノンは、ミロが不安に思うものが何なのか、少しだけわかりかけたような気がした。
「ミロ、何も恐れるな。オレが教えてやる」
ふたたびカノンへ向けられた、頼りなく揺らめく青い双眸には、怒りとも恐れとも、不安とも戸惑いともつかない、微妙な色が映し出されていた。
揺れ動くミロの情感を、今、誰よりも近くで感じられることに、カノンはこの上ない喜悦を感じる。 こんなミロを見るのは、自分だけだ。そして、ミロへこのような変化を与えたのも、与えられるのも――自分だけなのだと自惚れたい。
けれど、ミロの腕をふたたび捕らえようとしたところで、辺りへ響いた複数の足音に、カノンは久しぶりに、殺意めいたものを覚えた。
「二人とも、何をしてる。離れなさい」
突如として響き渡った自分と同じ声音は、紛れもないサガのものだ。その後ろから、幾人かの雑兵が、恐る恐るといった様子で、カノンとミロを指さしている。間の悪いことに、どこからか騒ぎを聞きつけたらしく、また、二人して黄金聖衣をまとっているせいか、よもや私闘ではないかと勘違いされたようだ。
ぎょっとした顔をしたものの、ミロは、言われたとおり大人しくカノンから距離を取った。舌打ちしつつ、カノンはなおもミロへと距離を詰める。だが、鋭い声音がそれを制した。
「カノン」
「うるさい、邪魔をするな。ただの話し合いだ」
「話し合いに見えないから言っている」
弁明しても無駄とは思ったが、案の定だ。サガが目配せすると、雑兵らは若干の気後れを見せながら、カノンと、それからミロの周囲を取り囲んだ。諦めたように、ミロが全身から力を抜いたのがわかった。
間に割って入ったのが、サガだけならばまだ良かった。だが勘違いとはいえ、聖衣もまとわぬ雑兵らに、戦いでもない理由で怪我を負わせるわけにはいかない。
悔しさに歯噛みしながら、実兄へと募る憎悪を隠そうともせず、カノンは仕方なく、その腕を静かに下ろした。