聖域より愛をこめて 2
これは、夜までに一雨来そうだ。
暮れはじめた夕陽が落ちるのは、あっという間だ。茜色から群青色へと、徐々にグラデーションを描きはじめる空の向こうに、灰色のぶ厚い積乱雲が見える。頬を撫でる風は凪いでいて穏やかだが、上空を吹く風が異様に早いのは、流れる雲の動きを見ればわかることだ。
無意識にすんと鼻を鳴らして、空気の中に雨の匂いを嗅ぎ取ると、カノンはその確信をさらに強めた。
麓の村の視察を終えて、本来ならばこのあと、教皇宮へ出向かなければならないところだ。けれど、今日は取り立てて報告するようなことは何もない。
濡れ鼠になるのを避けるためにも、明日の朝一番にまわせばいいか。
そんな風に考えたところで、夕食時にするにはまだだいぶ時間があることに気づき、カノンはふと面を上げた。
ミロと会わなくなって、一週間が経過しようとしていた。というか、正確には避けられている。いつものように天蠍宮を訪ねてみても、聖域に常駐しているはずのミロが、ここのところ、まるで計ったように不在がちである。
無論、せまい聖域内でのこと、偶然顔をつきあわせる機会がないわけではないのだが、その僅かな遭遇の間でさえも、ミロは素っ気なく、カノンの横をすり抜けて行った。
わかりやすくて結構なことだが、こうまであからさまだと、逆に追い回すのも少々気が引ける。原因に心当たりがあるから、なおさらだった。
きっかけは多分、双児宮での酒盛りだ。そんなつもりはなかったのに、つい不機嫌さを露わにしてしまったことを、カノンは後悔していた。
だが今回は、ミロの方にも原因はある。
あの日、ミロへ告げた言葉に嘘はなかった。
愛していると、何度も言葉にして紡いだのは、もちろん、ミロへ気持ちを伝えるためだった。そして同時に、自分自身の想いを確認する意味もこめられている。
以前のカノンであれば、他人へ愛をささやく行為など、それこそ一笑に付したに違いない。愛だなどと、かつてはもっとも安っぽく疑わしいと思っていた言葉が、ミロを前にすると、この上なくかけがえのない、大きな意味を持つのだと知った。
思えば、言葉は何だって良かった。カノンにとって、ミロだけが特別な存在だと伝えるすべが、他に許されるのなら、何でも。
こういった心境の変化を受けとめられるようになったのは、想いを口にして告げたことが大きいのだろう。
ミロへの想いを内に秘めていた時は、呼吸をすることさえ厭わしかった胸の内が、今となっては、澱が取り払われたかのように清々しい。まるで色を失ったように虚ろだった世界が、急速に光を取り戻し、どこかささくれ立っていた感情が、今はひどく穏やかだ。
すべては、ありがたいことに、どこかのたがが外れたおかげだと、カノンは考えている。
愛という言葉に酔っていると言われれば、それまでなのかも知れない。たとえそうだとしてもかまわなかった。
カノンを酔わせられるのは、極上の美酒でも絶世の美姫でもない。この世にたった一人、美しい黄金の蠍だけ。その事実さえ確かなら、今はそれでいいと思う。
そのままでいいと告げた言葉通りに、果たしてミロが振る舞えるのか。それは、ある種の賭けだった。
謀ったわけではもちろんないが、愛の告白を受けた相手に対し、あのミロがどのように応えるのか、正直なところ興味もあった。
聖域の箱入りとはいえ、色恋を知らぬ子どもではないだろうし、かといって、派手な外見に見合う手練手管に長けているようにもまた見えない。
そして少なくとも、ミロの態度から、まるで望みがないわけでもないことを、カノンは知った。それは思いがけない福音のようにカノンの胸へ響いて、同時に、ならばと逸る気持ちばかりが募っていく。けれど、まだ早い。
ミロは、あれからとてもわかりやすい変化を遂げた。カノンは努めて、できるだけこれまでと同じように振る舞っていたが、ミロの方は戸惑いつつも、カノンの一挙一動を意識しているのは間違いなく――これは――ひょっとすると本当に――まさか期待していいものかと、カノンの心臓はこれまでになく早鐘を打ち始めた。
サガのいない日を選んでミロを双児宮へ呼んだのは、別に下心あってのことではない。
過日には、よりにもよってサガの目の前で、あろうことか大胆な告白劇を繰り広げてしまったのだ。自分はいいとしても、ミロは大いに居心地が悪かろうと思っただけで、決して他意はなかった。それに今では、サガが双児宮にいる日の方がめずらしい。そのことはミロもよく承知しているはずだった。
カノンと二人きりだと知ると、ミロはそれこそわかりやすく態度を変え、すぐに落ち着かない様子になった。酔えないのは、気が張っている証拠だ。
いつもならば、決してしないであろう無茶な飲み方をして、ラグの上に横になったかと思えばすぐさま飛び起き、ミロはすたすたと、どこか緊張した足取りで、双児宮のキッチンへ向かった。
これには内心、カノンもほっとした。今のカノンにとっては、何気なく横たわるミロの金糸ひと筋さえ、とてつもなく婀娜っぽく感じられるのだが、必要以上にこちらを意識しているくせ、当の本人は、まるでそういったことには無頓着だ。長期戦覚悟の上とはいえ、もう少し何とかならないものだろうかと、カノンは心中で何度もため息をついた。
果たして、キッチンから戻ったミロの手には、いくつもの酒のつまみが握られていた。
その在りかを知っていても、これまで、自分で用意することなど一度たりとてなかったミロが、そのような行動に出た意味を考えた時、カノンは何ともやりきれない気持ちになった。
カノンは別に、ミロを無理矢理どうこうしたいと思っているわけではない。つかず離れず距離を取り、反応を探ることはあっても、せつくつもりは毛頭ない。こうなった以上は、黙ってミロの心境の変化を待とうと、すでに心を決めている。
もちろん、晴れてめでたく両想いになった暁には、色々と、まあ色々と、したいことやして欲しいことが人並みにはある。けれどそれは、ミロの合意が得られればの話だ。無理強いでは意味がない。
ミロには、もう二度と自分のことで恐れを抱いて欲しくないと願う、ロマンチストな自分を自覚する一方で、大切すぎて触れられないなんていう奴は絶対に嘘つきだと断言できる、リアリストな自分もいることを、カノンは十分承知していた。
ミロの保守的な性格もそうだが、現実的に考えて、無理からぬ話だろうということも、理解しているつもりだ。
だがそれでも――これはカノンの完全なエゴだが、ミロへ気持ちを伝えずにはいられなかった。
ああは言ったものの、カノンは、決してあれが最後だと思ったわけではない。
切羽詰まった局面で、不謹慎だとわかっていても、衝動的にミロへ触れたいと願ってしまった。
愛しいものには触れていたいし、触れられたい。
求めたいし、求められたい。
そういった想いを抱いていることを、ミロに、少しでも自覚して欲しかったのだ。
特別意識したわけではなかったが、恐らく、そういうことなのだろうと思う。
そして、想いを告げてからというもの、日増しに勢いを増幅させるその感情を、カノンは確かに、もてあましてもいた。
けれどここに来るまで、何度か躓きかけている現実が、その感情に歯止めをかけた。
カノンは一度、任務で訪れたあの孤島で、大きな失態をやらかしている。
恐れと懇願が入り交じった、あの時のミロの声音を、実は今も時々夢に見ると言ったら、ミロはどんな顔をするだろうか。
ここで過ちを犯すわけには、絶対にいかないのだ。
それなのに、あの夜、差し向かいで酒を飲んでいたミロは、まるで捕食者を前にした小動物そのものだった。
誰よりも尊大で不敵、王のような振る舞いをものともしない男が、そわそわと落ち着かず、室内へ視線をうつろわせるさまは、滑稽ですらあった。
だがそれ自体はもちろん、不快でも何ともない。本人に言えば、ふたたび必殺技を撃ち込まれる羽目になるのは必至だろうが、可愛らしいとさえ思う。
いっそこのまま、勢いに任せてその身を押し倒し、思うまま、ミロの熱を暴けたなら――。
だが今、それをどんなに望んでも、ミロをどうにかできる段階ではないのだ。残念なことに。
カノンが指摘すると、ミロはいつもの調子で、ふざけるなと言い放った。頬はわかりやすく紅潮しており、本心からのセリフではないということはすぐに知れた。
けれど、勢いとはいえ、ミロに対する想いを一瞬でも否定されたような気がして、カノンの方もつい、かちんと来てしまった。
そう見えるかと訊ねたおのれの声が、ひどく冷たく、突き放したような響きになってしまったことに、カノンは気づいていた。
表情を失い、素早く身を翻すミロへ、ためらいなく声をかけられるほど、カノンは、変わり身の早い人間でも、割り切れる大人でもなかった。
*
執務室へ、小さな食卓ごと運ばれた食事は、サンドイッチと紅茶、それと、半分ずつ切り分けられた白桃といったものだった。匂いが籠もるものや脂の乗ったものは、さすがに執務室ではまずいという理由からだろう。
サガは雅やかな所作で紅茶をひとくち口元へ運び、それから静かに、白いカップをそろいのソーサーの上へと戻した。
「嫌いではないと思ったが。もしかして食欲が?」
「いや。いただこう」
サガに指摘されるまで、ミロの手は、カップに注がれた琥珀色の液体を、スプーンでくるくると掻き回すだけだった。けれどそういえば、砂糖もミルクも入っていないことに気がついて、ミロはおもむろにサンドイッチへ手を伸ばした。勢いよく口へ放り込み、無言で咀嚼する。
「……ミロ。聞いてもいいだろうか」
「む」
いつものミロならば、生返事とはいえ、口の中にものを入れたままで口を利くことなど絶対にしない。けれどあいにく今のミロには、食事が喉を通り終えるのを待つ余裕がなかった。
サガを目の前にすると、どうしても想起してしまうことがある。
一か月前に双児宮で起きたできごと、それから、その綺麗な顔に瓜二つの、双子座の弟のことだ。
「カノンのことだが」
いきなりこれだ。予想していたこととはいえ、ミロは激しく咳き込んだ。サンドイッチの最後のひとかけを飲み込みかけていたところだったので、紅茶で勢いよく喉の奥へ流し込む。逆流はなんとか防げたが、生理的な不快感で目に涙がたまった。
「大丈夫か」
大丈夫なわけがあるものか。心配するくらいならはじめから聞くなと抗議してやりたいところだが、咳が止まらないので、ミロは仕方なく黙ってうなずいた。
「……おまえから見て、カノンはどういう男なのだろうな」
ミロを気遣いながらも、どこか遠くを見つめるような眼で、サガが言った。まさかそう来るとは思わなかったので、ミロは少しだけ拍子抜けしてしまう。てっきり、あれからカノンとどうなったのか、聞かれるとばかり思っていたのだ。
「どうとは」
質問を質問でかえすやり方は、あまり褒められたものではない。だがミロとしても、サガの意図するところがわからないまま、話をすすめるわけにはいかなかった。それにカノンがどんな男かなんて、そもそも、ミロにだってよくわからないのだ。
飄々として、勝手気ままに振る舞っているかと思えば、思いがけず頑固で、真摯な一面を垣間見せることもある。小狡い男かと思いきや、決して自分ばかりが優位に立とうとするわけでもない。
しつこくつきまとわれても、なんだかんだでそれを許容していたのは、カノンが、ミロの意思や立場を尊重していたからなのだと、今ならばわかる。
けれどだからといって、カノンのことを知った気にはなれなかった。しょせん想像の域を出ないし、カノンの口から聞いた感情らしい気持ちは、思えばたった一つきりなのだ。つまり、カノンが――ミロのことを。
「わたしは、」
どこか硬い響きを持ったサガの声音が、ミロの思考を中断させた。迷うように、そこでいったん言葉を切ると、サガはふたたび手元のカップをすくい上げる。洗練された所作は、カノンにはないものだ。
そういえばカノンは、ミロへは気に入りのカップで飲み物を出すくせに、自分の分を注いだマグカップは、いつも適当だったように思う。そんなことにさえ、ミロは最近になるまで、まったく気がつかなかった。
「わたしは正直、複雑な気持ちだ。カノンに――あのような一面があるとは思わなかった」
ミロに向かって話すというよりは、独白のようなセリフだった。ミロは黙ってサガの顔を見やり、先を促した。
「奪うことしか知らぬ男だと思っていた。我が弟ながら、情けない話だが」
そう言って笑うサガの表情は、どこか自嘲めいた色を醸し出していた。ミロは心持ち首を傾げると、冷めかけてぬるくなった紅茶をひとくち含んだ。
「過去の話だろう」
聖戦の折、カノンが双子座の黄金聖衣を身にまとい、冥界で奮闘した様相を、サガが知らぬはずがない。嘆きの壁を打ち破る際、聖衣をサガへと返上し、生身のまま、かの翼竜と相打ちに持ち込み、果てたことも。
そのことを誰よりも知悉しているはずのサガが、なぜ今さらカノンをそのように評価するのか。
「……あのような、というと?」
さらに気になってミロが訊ねると、サガは、かたちのいいくちびるをふと歪ませた。
「静かに、誰かを、ただ愛するということだ」
カノンと同じ色の碧眼が、一瞬、輝きを強く増したような気がして、ミロは息を詰まらせるのと同時、頬が熱くなるのを感じた。聞くのではなかったと今さら後悔しても遅い。
「あれは、もうずっと以前からミロのことを気にかけていた。とっくに気がついているのだろう?」
ミロは眉をひそめる。そうは言われても、何と応えるべきかとっさに判断がつかなかったし、いくら双子の兄とはいえ、カノンの感情を、他の誰かから聞かされたくないとも思った。
「一度は身を退こうとも考えたらしい。あの弟が。ミロ、おまえに拒絶されることを恐れて。十三年前とは比べものにならない、まったく殊勝な考えだ。そうは思わないか?」
だんだんと饒舌になるサガへ、ミロは底知れぬ違和感のようなものを覚えた。サガが言っているのは、カノン自身から聞いた話だろうか。だとしても、そのような話を、本人の与りしらぬところで軽々しく持ち出すべきではない。それくらいの分別は、サガとて持ち合わせているはずだ。
サガのまなざしが、どこか剣呑な光を帯びているようにも見え、ミロの背すじに良くない予感みたいなものが走る。
これ以上は、聞かない方がいいかも知れない。そんな気がした。
けれどサガは、言葉を紡ぐのをやめなかった。
「悪事ばかりを働いて、わたしをそそのかし、神に取って代わろうとしていた男が、今では女神の聖闘士で――」
「人は変わるものだ」
サガのセリフをさえぎるように、ミロが鋭く声をかぶせた。サガがカノンを貶めるようなことばかりを言うので、思いがけず強い口調になってしまった。サガが驚きで目を瞠るのがわかった。けれど撤回はしなかった。その必要もない。
変われるのは、強さだ。そして覚悟の重さなのだと知った。
聖戦の夜、カノンがその身をもって知らしめたように。
その覚悟を感じ取ったからこそ――ミロはカノンへ、断罪と、赦しを与えたのではなかったか。
思い至り、ミロは虚を突かれたような思いにとらわれた。
それは――おのれ自身にもいえることなのではないか。
では、変わりたくないと願うのは弱さだろうか?
告白に対し何の答えも出さず、以前と同じ関係を望むことに、ためらいがなかったわけではない。卑怯者のすることだと、頭の隅では理解していた。
けれど、愛だなどと言われても、ミロにはわからないし、知らない。そんな感情は、誰にも教わらなかった。
どれだけ頭を悩ませて考えてみても、ミロ自身、カノンへ抱くこの感情が何なのか、その手がかりにさえたどり着けないのだ。
変わらなくていいと告げられたことに、心のどこかで安堵する自分がいるのも確かで。
ただ、これだけははっきりしている。
ミロには、カノンのような振る舞いはできないし、また、しようとも思わない。
どんなに憎からず思っていたとしても、あんな風に、熱の籠もったまなざしを――声を、ミロがカノンへ向けることは、きっとないだろう。
そんなことで頭を悩ませる自分に、ミロはもう、ずっと嫌気が差していた。自分は女神の聖闘士で、その中でも最高位たる黄金で、だから誰より高潔で、揺らがない者でなければならないのに。
だからカノンの存在は、ミロの信念を揺るがし、脅かすものだ。
そう感じた時、ミロの胸には、怒りとも焦燥ともつかない、嫌な感覚がほとばしった。
それは自分の知らない、底知れぬ何かを突きつけてくる男へ対するものか。
それとも、目に見えぬ何かに恐れを抱く自分自身へ対するものか。
あるいはその両方か。
あの夜、双児宮でカノンに指摘されて、思わずかっとなったのは、そんな自分を見透かされたような気がしたからではないか。
「……そうだな。わたしとて、カノンのことをとやかく言えた義理ではないか。ミロの言うとおりだ」
そんなことを言わせるつもりではなかった。どう応えるべきか、ミロが考えあぐねている間に、サガは静かに席を立ち、そして掛け時計へ目をとめると、「もうこんな時間か」とつぶやいた。
短針が、午後五時を指し示そうとしているところだった。
食事の礼を告げ、のろのろと椅子から腰を上げると、ミロは音もなく執務室をあとにした。
かけられる声音は、もうなかった。
うす暗い回廊を渡ると、湿った空気が鼻をつく。
雨の匂いが、すぐそこまで迫っていた。