聖域より愛をこめて 1


 さわやかで心地よい秋風が頬を撫でる、ギリシャは聖域の、とある昼下がり。
 どこまでも高く広く澄み渡る紺碧の空に、そろそろ茜色の雲がたなびきはじめようかという時分である。

 その聖域の頂近く、教皇宮の最奥に位置する執務室で、ミロは久方ぶりとなる教皇への謁見を、できるだけ手短に終わらせようと努めている最中だった。


「……以上だ。報告書はいつも通り、文官へ預けてある」
 口頭での簡潔な報告を終えれば、あとは教皇から辞去の許しを得るだけだ。
 昔ながらの古めかしい羊皮紙にしたためられた書面は、指定の書式に沿ったものとなっているか、怪しい点がないかなど、教皇宮の文官によって十分に検閲された上で、教皇の元へと届けられる。十二宮の守護者たる黄金聖闘士だからとて、例外はない。
 一昨日の夜、急な任務で聖域を出立したミロが、教皇宮へ到着したのは、つい今し方のことだ。確認と報告を急ぐあまり、道中は不眠不休、口にしたのは水くらいなもので、胃の中は空っぽだった。もはや空腹を通り越して気分が悪いが、自業自得なので、無論おくびにも出さない。

 ミロは待っていた。
 だが今日に限っては、待てど暮らせど、その声がかかる気配はない。
 不審に眉をひそめつつも、ミロの胸には今、二つばかり思い当たる節があった。
「……。以上だが」
「ああ、すまない。ご苦労だった」
 痺れを切らし、もう一度繰り返すと、サガは、そこではじめてミロの存在に気がついたかのように、おざなりなねぎらいの言葉を口にした。
「……」
「……」
 目を合わせなくとも、サガの視線がみずからの顔に集中しているのがわかる。いたたまれなくなったミロは、その言葉を許しと判断し、素早く純白の外套を翻した。
「何かあれば、宝瓶宮にいるから呼んで欲しい」
 そう告げたところで、サガがすかさず口を挟んできた。
「カミュなら今朝方シベリアへ発った。聞いていないのか」
「何?」
「弟子との約束ができたそうだ。……無理もないか。何せ急だったからな」
 宝瓶宮を通過する際、その気配が手繰れなかったことを、別段不思議には思わなかった。黄金聖闘士といえども、常に他者の気配へアンテナを張り巡らせているわけではない。意識しない限りは、いちいちその存在を確かめることなどしないから、詮ないことと言ってしまえばそれまでなのだが、お門違いだとわかっていても、ミロは今、積年の友の無精さを、恨まずにはいられなかった。
「急ぎの用事でも?」
 重ねて訊ねるサガへ、ミロは鷹揚に首を横へ振った。
「……いや。少し話でもしようかと思っていただけだ。では獅子宮へ」
「アイオリアなら、アイオロスとシュラとともにアテネ市街へ降りたばかりだ。買い物があるとかで、夜まで戻らないらしい。そのまま外で夕食をすませてくるとも言っていたな」
「……」
「アルデバランは訓練生の鍛錬で、闘技場だ。ムウならば自宮にいるだろうが……今は聖衣の修復中だ」
 同期でも、乙女座のシャカがあらかじめ除外されているあたり、さすがにサガは心得ている。
 ならば闘技場へ向かってみるかとミロが一考したところへ、さらなる追撃が寄越された。
「ミロ。任務地からここまでは直帰だったのだろう。昼食は?」
「……取っていない」
 何も考えず、素直に応えてしまってから、ミロはしまったとほぞを噛んだ。
「では軽いもので良ければ、女官に運ばせよう。わたしもそろそろ休憩しようかと思っていたところだから」
 一聞すると、気遣わしげにもとれるサガの声音だが、言外に、拒むことを許さない圧力のようなものが含まれている気がして、ミロは否と拒むことができなかった。
 年季の入った大きな掛け時計の短針が、ちょうど、午後四時を指し示したところだった。







 ミロがカノンから愛の告白を受けて、早一ヶ月が経過しようとしていた。
 あれから二人の関係に劇的な変化があったかと問われれば、答えは否だ。強いて挙げるとするならば、すべて元通りになった、それだけである。
 カノンは相変わらず、ミロの顔を見るためだけに天蠍宮を訪れるし、二人の間で繰り返される軽口めいた他愛ない会話も、以前と何一つ変わらない。それはカノンが宣言したとおりでもあるし、また、ミロ自身が望んだことでもあった。

 そのままで、変わらなくていいと、カノンは言った。
 だが、本当にそれで事態が収まるのか。
 確かに、カノンの態度は変わらない。ただ、どこか吹っ切れたように伸びやかな表情を見せるようになったのは、ミロの気のせいではないと思う。それは返せば、カノンがこれまでにひた隠しにしてきたものが、どれだけのものであったかということをあらわしてもいた。
 そういえば、カノンがいつから自分をそういう対象として見ていたのか、ついぞ聞きそびれたままだということに、ミロは最近になってから気がついた。
 だが、今さら確かめてみたいとは思わない。訊ねるのは、カノンの意思をあらためて確認することになる。告白に対し、何の答えも出していないミロがそれを問うのは、さすがに傲慢というものだろう。

 けれど、二十年間生きてきた、さして長くもない人生の中で、あんな風にひたむきな愛の言葉を捧げられた記憶は、ミロにはない。熱心にかき口説かれた経験も皆無だ。
 だから想いを告げられたところで、カノンへ何と返答すべきか、どうするのが正しいのか、まったくもって想像がつかなかったとして、ミロを責めるのは酷というものである。

 そして、告白を受けた側としてやっかいな問題が残ることに、ミロは遅ればせながら気がついた。

 たとえば先日、こんなことがあった。

 聖域周辺の警備の任を終えて、ミロはいつも通り、教皇宮へと続く石段を上がっていた。常と異なるのは、掌中に、麓の村の子どもたちから贈られた、めずらしい色合いの石が幾つか握られていたことだ。
 いつもありがとうございますと言って、たくさんの小さな手が差し出したそれを、ありがたく受け取ったミロは、とりあえず書類の重しにでも使ってみるかと思案していたところだった。

 ミロが天蠍宮へ到着したのは、暮れなずむ夕刻にさしかかろうかという時だった。色彩の少ない聖域の石畳や石柱が、一番色鮮やかに染まる時分でもある。
 幼い頃から幾度となく見てきたその情景を、天蠍宮から眺めるのが、ミロは好きだった。
 そこで果たして、ミロが自宮の入口付近で目にとめたのは、やはりというかカノンの姿だった。
 いつ戻るのかも知れないのに、カノンがミロの帰りを待ちわびていたのは一目瞭然で、けれどそれ自体は、さしてめずらしいことでもない。これが以前であれば、ミロは、よく飽きないなと皮肉なセリフを放って投げてやることができた。

 けれど、それも今となっては過去の話だ。
 ミロの姿を認めて、わかりやすく顔をほころばせるカノンのその意図を、もう、知ってしまっている。
 ミロの名を呼ぶ声音に含まれた、滲むような響きの、その意味も。

 不意に、胸を突かれたような錯覚に襲われて、その感慨を振り切るように、ミロは握っていた拳をカノンの前へ勢いよくつきだした。広げられた手のひらの上に、子どもたちから贈られた石を二つばかり落としてやる。
 余るからやるとぶっきらぼうに告げてみせたら、はじめ何ごとかと目をまるくしていたカノンは、そうかと笑ってうれしそうに目尻を下げた。
 そうして、掌中で石を大事そうに転がすと、あろうことか、それへ愛おしそうにくちびるを寄せるカノンを見て、ミロは言葉を失った。
 まだミロの熱を残しているであろうその石が、カノンにとってどんな意味を持つのか、まざまざと見せつけられたような気がしたのだ。


 あれからカノンは、ミロへ愛を伝えることはしなかった。特別触れるようなこともない。そういう意味で、カノンは確かに、宣言した言葉の内容を、忠実に守り続けているといえた。

 もう戻れなくなる。
 口をついてとっさに出たものの、実際、愛を告げるという行為がもたらす結果について、ミロは具体的に考えたわけではなかった。しかし今ならわかる。ミロの直感は、やはり間違っていなかった。
 告白は、想う気持ちを隠すことはしないという宣言に他ならない。
 カノンはああ言ったが、やはりそのままでいられるはずがないのだ。

 カノンが直接、ミロに何かをしたわけではもちろんない。色恋沙汰に聡いとはいいがたいミロでも、人を想う気持ちに垣根が立てられないことなど、とっくに承知している。
 だから想うななどとはさすがに言えず、また、それはおのれの本心ではないことも、ミロはうすうす気がついていた。

 その笑みを、以前と同じように受けとめられなくなっていることに、もっと早く気づくべきだった。

 カノンは変わらない。
 変わってしまったのは自分の方なのだ。

 ミロにはそのことがどうにも許しがたく、また耐え難かった。



 そして、一週間前。

 教皇の間での定期会合を終え、自宮へと下る道すがら、今夜は双児宮で飲まないかと、カノンに声をかけられた。ギリシャの地酒でいいものが手に入ったからと話すカノンへ、断る理由も特に見あたらず、ミロはわかったと短くうなずいた。ここまではいつも通りだった。

 教皇職に就いてからというもの、サガはおもに教皇宮で起居しているらしい。
 とはいえ、双児宮にあるサガの私的スペースはそのままの状態で残されているようだし、また聞くところによれば、週に一、二度は戻ることもあるという。
 ミロが双児宮を訪れた時、当然のようにサガは留守だった。ミロが何か探すような素振りを見せたので、すぐにそうと知れたのだろう。サガなら今日は帰らないと、カノンは何でもないことのように告げた。

 告白を受けてから、そういえば双児宮に来るのはこれが初めてになるのだということに、ミロはそこでふと思い至った。だが、それが何だというのだ。これまで通り、二人で、少しばかり酒を嗜むだけだ。特別何を気にかけることがあるものか。
 お互いそこそこの酒豪なので、潰れるまで酔ったことはなかったし、悪い酒癖があるわけでもない。何も問題はない、はずだ。
 幸いカノンの態度はこれまでと変わらない。ようは自分が変に意識しなければいいだけの話なのだ。
 ミロは内心で一つ深呼吸をしてから、カノンと二人きりの酒宴へ臨んだ。

 実際、酒の席では、カノンからサガへの愚痴だったり、最近の任務でミロが気になったことだとか、これといってとりとめのない話ばかりが話題に上った。だが、いつもならほろ酔い加減になる量の酒を過ごしても、ミロの頭は冴え冴えとして、なぜだかまったく酔える気配がない。
 こんなことは今までになかった。一抹の不安を覚えつつ、ミロはならばと勢いよくグラスを傾けた。そこそこ度数の強いギリシャの地酒は、ミロの喉を焼き、胸を焦がして、最後には胃を燃やした。

 めずらしいなと、カノンが声をかけてきた。素知らぬふりでそっぽを向くと、ミロは巨大なラグの上にごろりと寝そべった。普段であれば、これで少しは酔いがまわるのだが、この日に限ってはそれがまったく功を奏さず、ミロはふたたび上体を起こした。酒瓶を手に取り、軽く振ってみる。すでに中身は空になっていた。
 水でも飲むかと訊ねるあたり、カノンも、ミロの様子に何かしら思うところがあったのかも知れない。だがミロはその声を無視して、双児宮のキッチンへ足を運んだ。冷蔵庫から炭酸水と生ハムを、戸棚の引き出しからはナッツとドライフルーツを見つけて引っ張り出し、それらすべてを手にして、ふたたびカノンが待つラグの上へと戻る。
 どれから開けるとカノンへ訊ねつつ、返事も待たずに、ミロはそのどれもを次々と開封していった。皿の上にはまだ幾らかのピスタチオが残っていて、もどかしく、ミロは適当にその横へナッツをばらばらと転がした。皿が受けとめ損ねたアーモンドやカシューナッツが、ラグの上へ無造作に散らばった。

――ミロ。

 急にかしこまったような声を出すカノンに、ミロはぎくりとした。炭酸水の栓を開ける手を止め、そっとカノンの表情を盗み見る。

――そんな風に、警戒してくれるな。

 身体中の熱が一気に顔へと集中するのを感じて、ミロは手の甲でおのれの頬を拭った。燃えるように熱かった。

 バカをいうな、誰にものを言っている。
 ミロがそう食いついてみせても、カノンは困ったような顔をして、そっとグラスを床に置いただけだった。

――おまえともあろう者が、まるで兎か子鹿のようだ。……いつ餌食にされるのかと怯えてる。

 静かにそう告げるカノンの、やたら落ち着き払った態度に、ミロは思わずかっとなった。頬の熱が、さらに上昇したような気がした。

 ふざけるなと一喝して睨みつけてやると、カノンは動じた風もなく、存外真面目な面持ちで、ミロを見下ろしていた。
 それから、ひどく冷たい声音で、こう言った。

――ふざけているように見えるのか?


 今夜はもう酔えない。
 明らかに苛立ちを含んで輝く、カノンの深い碧眼を見返して、ミロはそう思った。

 もう帰るとだけ告げて、ミロは重い足取りで双児宮をあとにした。

 それが、カノンと会った、最後の夜になった。