ばらの騎士 5
「ミロ」
ふわふわと、まるで海の水面を漂うような浮遊感に包まれる中、虚空を掻いてさまよう指先を掴まれた。
その声には聞き覚えがある。ミロは祈るような気持ちでその名を呼んだ。
「カノン」
「無事か? カノンがどうした?」
――サガ。
諦めにも似た思いが胸をよぎり、ミロはゆっくりと首を巡らせた。気がつけば、見慣れた薄鼠色の石畳の上に、娘もろとも倒れ伏していた。硬くて冷たいその床は、ミロにとってなじみのある感触だ。
「オレは大丈夫だ。それよりも」
娘を、と言いかけたところで、慌ただしく駆け寄った靴音が、傍らに横たわる娘の身体を抱き起こした。同時に、安心しろとでも言いたげにミロの肩を叩く力強さは、アイオリアのものだと知れた。
一方ミロは、異次元空間を越えたせいか、どこか平衡感覚がおかしく感じられ、しっかりと足を踏みしめて立つことが難しかった。何とかして上体を起こし、ミロはその場に膝をついた。
「ここは……聖域か」
「双児宮だ。カノンから小宇宙で報せを受けて、待機していた」
ミロの手を取り、煤けた顔や腕をくまなく検分しながら、サガが言った。
「異次元送りの技は、行き先がどこに繋がっているかわからないからな。だが、わたしとカノンの波長を合わせれば、空間軸をある程度絞ることが……ミロ?」
「カノンは残った」
ミロは声を振り絞った。やっと、サガの問いに答えることができた。けれどカノンはここへ戻らない。カノンがどうなったのか、ミロにもわからないのだ。
「ミロ、……眼が?」
ミロはひりひりと痛む目元を乱暴に拭った。涙が止まらないのは、煙を浴びたせいだと、おのれに強く言い聞かせる。
「カノンは無事だ。あれに何かあれば、わたしにはすぐわかる」
今ばかりは、サガのそんな気遣いがミロには痛かった。それがカノンとまったく同じ声であることも、ミロの胸をいっそう強く締めつけた。
なぜ自分がこんな想いをしなければならないのか。すべてはここにいないカノンのせいだと思うと、恨めしさで、ミロはくちびるを強く噛みしめた。だが、その恨み言を聞かせたいと願う相手はもういないのだ。
「ミロ、泣くな」
諭すように語りかけてくる穏やかな声音と、そっといたわしげに髪へ触れる指先は、サガらしいいたわりに満ちていて、ミロはその手を違うと言って振り払うことができなかった。
「話は後だ。先に手当を」
力なく膝をついたまま、そこから動こうとしないミロの腰に手をまわし、サガはその身体を抱きかかえるようにして立ちあがった。こんな風に、脱力しきったミロを見るのは初めてだった。ミロがそれほどまでにあの弟の身を案じてくれているとは、正直サガも意外だった。
「ミロ――」
なおも言い募ろうとするサガに、もうやめてくれと、ミロはできることなら叫びたかった。カノンと同じその声を、これ以上聞いていたくない。
サガに支えられてもなお、重心を失って傾ぐミロの身体が、横から伸びてきた引力に奪われた。もはや抗う気力もなく、ミロはただその力に身を任せた。
「何をしてる」
「ミロが眼をやられたらしい。今治療を」
「そんなことはわかっている。もたもたするなと言ってるんだ」
サガの声とまったく同じユニゾンが、ミロの鼓膜を揺さぶった。オレが連れて行くと、今度こそしっかり腰にまわされたその腕が誰のものなのか、確認するまでもなかった。
「カノン」
眼の痛みも忘れ、ミロは輪郭を確かめるように、その頬へと指先を這わせた。煤にまみれても、はっきりとした見目よい顔立ちは、無残にも左頬が赤く腫れ上がり、くちびるの端は僅かに切れている。
間違いなく、双子座の弟の方だった。
「心配させたか? 説明してる暇がなかった。サガの方から異次元を開いてもらったんだ。半信半疑だったが、どうやら上手くいったらしい」
技の原理についてサガと話し合ってみたことはあったが、何せ使う機会がなかったからなと、カノンが続けた。だがミロにとって、今やそんな理屈はどうでもよかった。
「……死んだかと思った」
カノンの頬と目元にうっすらついた煤を払いながら、ミロがつぶやいた。言ってやりたいことが山ほどあったはずなのに、実際カノンの顔を目の当たりにしてみると、セリフの一つ一つが、すっかり頭から抜け落ちてしまっていることに気づく。
「それは縁起でもないな。残念ながら、オレはこうして生きている」
残念ながら、だとか。
カノンはまるで、ミロがカノンの死を望んでいたようなことを言う。
「一方的にあんなことをほざいて、あまつさえ勝手に死ぬなど、許しがたい侮辱だ」
ミロはカノンに触れる指先へ力をこめた。
「そうか。悪かったな」
ミロの手のひらにみずからの手を重ね、あっさり謝罪してみせると、カノンはそっとまつげを伏せた。その熱に驚いて、ミロは一瞬だけ身じろいだ。ただ重ねるだけに見えたカノンの手のひらは、意外なほど強い力でミロの手を捕らえていた。
「だが、言っただろう。オレも半信半疑だった。あれを逃したら、もう伝える機会がないと思ったんだ」
許せ、と低くささやいて、カノンはミロの手指におのれの指先を絡ませようとする。
その瞬間、怒りで目の前が真っ赤になり、ミロは今度こそその手を乱暴に振り払った。
「おまえの、そういうところが気に食わん。どれだけ突っぱねても、しつこく食らいついて離れないくせに――どうしてこんな時だけ、諦めるのが早いんだ。それこそ縁起でもないだろうが」
解放された拳を強く握りしめながら、憤然としてミロは吐き捨てた。
「機会がないだと? 笑わせるな。オレはどうなる。最後に聞かされたセリフがあんなので――そもそも、死に際でないと告白一つできんのか」
ミロが一気にまくし立てる。だが気圧された風もなく、カノンは顎に手をあてて、何やら考え込むような仕種になった。
「……何だ」
「いや。一応、袖にしているという自覚はあったんだな。おまえにも」
「――」
言葉を失ったミロの顔色は、ついで火がついたように真っ赤になった。熱に浮かされたような色を浮かべるその頬を、今度はカノンが捕らえる番だった。
涙が通った跡を確かめるようにして親指を滑らせると、カノンはミロの両頬を包みこんだ。そして、その熱を確かめるように、互いの額を静かに合わせる。
「お互い、無事でよかった」
「……誤魔化すな!」
カノンの長いまつげがミロの頬をくすぐり、こぼれる吐息が鼻先にかかる。めまいにも似たような感覚に襲われるが、流されてなるものかと、ミロは腹の底に力を入れて、低く唸った。
「おまえの言う愛だとか、オレにはわからない。いったい、オレにどうしろというのだ」
「何も。そのままでいい」
美しい光を宿す碧眼が、静かに告げる。だがその応えは、ミロにはまったくもって不可解だった。
「ならばなぜ言った。言えば戻れなくなると、わかっていたはずだ。オレもおまえも」
「さあ、なぜだろうな」
「ふざけるな。オレが聞いてる」
のらりくらりとミロの追及をかわすカノンの態度は、まるでつかみどころのない雲のようだ。やはりあれは冗談だったのかと、ミロは今さら自分の耳を疑いたくなった。
「ミロ」
名を呼ばれ、目線だけを上げて、その続きを促した。
「おまえに何かを強要したいわけじゃない。変わって欲しいわけでもない。――ただ、オレの気持ちを知っていて欲しかった」
カノンの指先が、いたわるようにそっとミロのくちびるへ触れる。それはひどく優しくそのかたちをなぞり、口の端までを愛しそうにたどった。
「気まぐれや、冗談なんかじゃない」
一瞬だけ苦しそうに眉を寄せ、カノンはミロの胸元へ静かに顔を埋めた。硬直するミロの腰に手をまわし、その胸に咲く深紅の薔薇へ、そっとくちづけを落とす。
「愛している」
返事も見返りも必要ない。
想いが認められずとも、ミロの側にいられればそれでいい。
ただ、愛していると。
それ以上のセリフをカノンは持たなかった。
見返りの部分についてだけは、さすがに嘘になるかと気がついて、カノンはミロの胸に顔を伏せたまま、一人こっそり苦笑した。
「おまえはどうしたい」
「……オレは」
カノンに問われ、ミロは逡巡した。
はじめのうち、カノンをうっとうしく思う気持ちがなかったと言えば、嘘になる。けれど、カノンと酒を酌み交わしたり、他愛ない会話をする時間が、いつの間にか苦痛でなくなっていることに、ミロは、たった今気がついたのだ。
「オレは………、カノンと会うのを、やめたくない…、と、思う」
ミロにしてはめずらしく歯切れの悪いセリフだが、難しい顔をしながらも、たどたどしく言葉を紡ぐその姿に、カノンは一縷の望みを見たような気がした。
「……ミロ」
「勘違いするなよ。だからといって、オレは、おまえとどうこうなりたいとか、そういうのは一切ないからな!」
ミロは熱の籠もった眼でカノンを見返した。たまらなくなり、カノンはとうとう、ミロの身体を力いっぱい抱きしめた。
「ああ。それでかまわない」
豊かな金髪に顔を埋め、そのまま金糸を掻き分けて、普段は隠された耳朶やうなじに、思うままくちづけたくなる。
「くっつくな! ……それから、あんなことは二度と言うな」
「それは無理だ」
カノンはあっさり首を横にふった。ミロを愛している。それはカノンにとって紛れもない真実で、いくらミロの頼みといえども、それだけは叶えてやれそうになかった。
「……。そっちじゃない」
「?」
「スペア云々の方だ。気分が悪い」
憮然とした表情で、くちびるを大いに尖らせて、ミロがつぶやいた。
「ミロ」
胸が疼くような、それでいて締めつけられるような、妙に切なくて、何とも言えず息苦しい心地になり、カノンは深く息を吸いこんだ。そしてもう一度、ミロの身体をしっかり抱きしめると、その耳元でささやいた。
「何度でも言う。――愛している」
「……知らん」
「愛している」
ミロは告白に眉をひそめ、顔を背けて素っ気なくつぶやくだけだったが、カノンは不思議と満たされるような心地がした。
カノンの指先が何度もミロの髪を梳いて、絡まった髪先のほつれをゆっくりと解いてゆく。
ミロははじめカノンの胸を押し返そうと、しばらく腕の中でもがいていたが、どうやっても離れないことを知ると、やがてため息をつき、力なく腕を下へ落とした。
ミロの胸に咲く、深紅の薔薇と白薔薇が、二人の間に挟まれて、ミロより息苦しそうにしているのが、かろうじてカノンの視界の端から確認できた。