ばらの騎士 4
舞台の上は、一面火の海だった。一階中央座席の通路という通路は、逃げ惑う人々の渦でひしめき合い、まるでその役割を果たしていない。
燃えさかる炎の明るさのせいで、かえって誘導灯が目立たず、係員の指示に従って行動できる者がほとんどいないのが、ミロとカノンのいる貴賓席からよく見えた。
ミロは貴賓席を囲む桟の上に足をかけ、素早く身を乗り出して舞台の上を注視した。ミロが何を考えているのかを素早く察したカノンが、その二の腕を強く掴む。
「はなせ」
「冗談じゃない。オレたちも避難するぞ」
叱りつけるように言うと、ミロは声を荒げて反駁した。
「バカを言うな。舞台の上には役者がいた」
「もう助からない」
その可能性を考えなかったわけはないだろうに、ミロはぎくりと頬を強張らせる。カノンはミロの腕を掴む手に力をこめた。
「来い。手遅れになる前に脱出する」
突如の爆発がなぜ起きたのかはわからない。だが、今、原因を考えている暇はなかった。炎は場内天高くまで燃え上がり、袖幕や上等のオペラカーテンにまで引火している。肌を直に炎で炙られるような熱さと、布が燃える嫌な匂いが鼻を突いた。
貴賓席は、場内でも比較的高い位置に設置されているため、煙がまわるのも早い。ぐずぐずしていれば、ミロとカノンの二人とて危ういかもしれなかった。
黄金聖闘士として、人命救助を最優先させることが正しい選択だと、ミロはとっさに考えたに違いない。だが、いくらミロが鍛えあげられた肉体を持つ黄金聖闘士だとしても、聖衣もなしに火の海に飛び込んで、無事でいられるはずがない。カノンが黙って見過ごせるわけもなかった。
「見捨てて逃げるのか。黄金聖闘士の、オレとおまえ二人がそろって」
「そうは言ってない。救える命は救う。だが助からないとわかっていて、みすみす行かせられるか。おまえの命は誰のものだ?」
ミロが息を呑んだ。それ以上言葉を重ねずとも、ミロの脳裏には、今、敬愛する女神の顔が浮かんでいるに違いなかった。
「まずおまえが無事でないと、救える命もないだろう。わかったらそこから降りろ。非常口はこっちだ」
最後に諭すように言い聞かせると、足場にしていた桟から、ミロはゆっくりと着地した。女神に頼まれたパンフレットを拾い上げようとして諦め、深紅の薔薇を、カノンがそうしているように胸に挿す。
「いい子だ」
「……子どもあつかいするな!」
くちびるを尖らせるミロへ、こんな時だというのにどうしようもなく触れたくなって、カノンはその想いを誤魔化すように、燕尾服のタイを取り払った。
非常口付近には、専用のダストシュートが設けられていた。そこには来賓をはじめ、支配人と数人の係員がたむろしており、着飾った紳士淑女が、我先に逃げだそうと必死になっている姿が、遠目にも見えた。
「主演の役者の元恋人の仕業だそうです。ストーカーの被害届も出していたんですが、こんなことになるなんて。警備は万全だったのに」
神よと十字を切る支配人の態度に、ミロが苛立っているのは明らかだった。そんなことはいいと首をふり、ミロは支配人の胸倉を乱暴に掴み上げた。
「逃げ遅れの確認は?」
支配人がびくりと身体をすくませる。
「一階の係員と、消防に任せてあります。わたくしどもは、こちらのお客様の脱出を最優先にと」
来賓には、当然、資産家や有力な政治家などの大物が多い。城戸沙織の名代で、今日この舞台を見に来たミロとカノンも同列のあつかいだろう。
「お客様もお早く」
額に汗を浮かべた支配人が、ミロとカノンの袖を引いた。その手を振り払い、ミロは、それこそ光のような速さで駆けだした。
「ミロ!」
気づいた時にはすでに遅かった。カノンの呼びかけにミロは振り返らず、恐ろしいスピードで、一階へと続く中央階段を駆け降りていく。
「あの……バカ!」
黄金聖衣はここにはない。ということは、いかなミロとて、生身の人間とそう変わりはないということだ。そのことを、ミロが念頭に置いているのかいないのか。
おそらく後者だろうと判断して、手近に転がっていたミネラルウォーターの栓を開け、頭から浴びると、カノンもミロの後を追って走り出した。
一階中央座席に、もう人影はなかった。地上出口にもっとも近いこともあり、脱出にさほど難はなかったのだろう。
そのことを確かに確認して、ミロは二階へと続く中央階段を駆け上がった。二階座席は、舞台中央を囲むようにして三つのエリアに分かれており、劇場で一番多くの収容人数を誇る。そのわりに非常口はたった一つしかなく、逃げ遅れがいるとすればここだろうと、ミロはだいたいの当たりをつけていた。
二階には、もうもうとした黒い煙が充満していた。口元をおさえ、できるだけ身を低くかがめて、ミロはよくよく目を凝らした。
そういえば、この間も似たような思いをしたな、などと考えて、あの時は、カノンの機転に救われたのだったと思い出す。カノンは、毒性を帯びた死骸を聖域に持ち込めないと言っていたが、今思えば、あれ以上ミロの身体が毒に晒されないよう、考えた末の判断だったのかも知れない。
「!」
そこでミロは眼を瞠った。二階座席の、非常口から少し離れたところに、うつ伏せに倒れた人の影がある。
素早く駆け寄り、その身体を仰向けにする。まだ十代の娘のようだった。ミロはその呼吸を確かめた。脈を取ると、小さいが、僅かにその鼓動を感じることができる。
他に人影がないかざっと目視で確認した後、娘を担ぎ、ミロは急ぎ非常口へと足を向けた。けれど思ったより火の回りが早い。これは本当に危ういかも知れないと、天井に頭を巡らせた時だった。
大きな木材が頭上から降ってくるのが眼に入った。とっさにそこから飛び退くが、娘を庇ったせいでうまくバランスが取れず、ミロはそのまま床へと倒れ伏した。
なんとか直撃は免れたものの、倒れた勢いで深く煙を吸いこんでしまって、ミロはひどく咳き込んだ。胸を突く息苦しさと、眼を刺激する痛みにこらえるように、歯を食いしばる。
「ミロ!」
カノンの声だった。涙で滲む視界では、その姿をはっきりと確認することはできないが、間違いなくすぐそこにカノンの気配を感じ取り、ミロはほっと小さく息をついた。
「無事か。怪我は?」
床に倒れ伏しながらも、手を挙げてみせるミロの姿を確認して、カノンは思わず安堵のため息を漏らした。その無事を確認しようと手を伸ばし、ミロの腕の中の人影に気づく。
「息は?」
「ある。早く、外へ」
娘を托そうとするミロの手首をも掴み、カノンは、娘共々ミロを担ぎ上げようとその手を引いた。
「バ、カ……! 無理だ。オレは……、ひとりで、行ける」
「その眼でか? そっちこそバカを言うな」
ミロはもう、眼を開けていられなかった。煙をまともに浴びたせいか、眼から涙がぼろぼろとこぼれて止まらない。
「煙を吸ったのか」
息も絶え絶えに言葉を継ぐミロを見て、カノンは内心で眉をひそめた。ミロと娘、どちらの命を優先させるかと聞かれれば、そんなものは最初から決まっている。
だが、ミロがそれを許すはずもなく、また、こうまでしてミロが助けようとした娘の命を、いとも簡単に切り捨てることへのためらいも、僅かにあった。
「大丈夫、だから、先に、行け」
ふたたびひどく咳き込むミロに、カノンの胸は不安にざわめいた。迷っている時間はない。カノンにとって、やはり一番に優先させるべきは、ミロの安全だった。ここでミロを失うことなどカノンには考えられない。罵られても、軽蔑されてもかまわなかった。ミロさえ無事でいてくれたら、それでいい。
もう一度、炎が大きく爆ぜる音がした。一度目の爆発とは比べものにならない轟音が辺りを包み、ミロとカノンはとっさに身を伏せる。
ミロはそっと面を上げた。カノンも、カノンの身体に庇われた娘も無事だった。だが、胸をなで下ろしたのもつかの間、非常口へと続く通路が、完全にひしゃげているのを、ミロは見た。
「退路がふさがれたな」
「……カノン」
ギャラクシアンエクスプロージョンなら、もっと大きな衝撃を与えて、壁を突破することができないか。そう考えたところで、先手を打たれた。
「残念ながらアウトだ。こんな火気の多いところでは、オレたち自身の身も危うい」
ミロの考えるところは、カノンにも伝わっていたらしい。
「ならば、どうする」
「そうだな……最後の手段か」
意識のない娘を床にそっと横たわらせ、カノンはゆっくりと立ちあがった。
「ゴールデントライアングル……か?」
双子座の得意とする、異次元送りの技だ。だが、行き先は使用した本人にもわからず、間違っても脱出用の技ではない。
「他にないだろう」
淡々と告げるカノンへ、ミロはかける言葉が見つからなかった。人命のためとはいえ、結果的にカノンを巻き込むことになってしまったのを、今さらながらにひどく悔いた。
「行くぞ。娘を頼む」
構えを取るカノンへ、ミロは不可解な眼を向ける。
「三人で飛べるのか? あれは、相手を次元の狭間へ送る技だろう。おまえはどうなる?」
「こんな時ばかり、おまえは頭がよく回る」
諦めたように苦笑するカノンの表情から、その時ミロはすべてを悟った。
「冗談はよせ。それならまだ、オレのスカーレットニードルで壁を崩した方が現実的だ……!」
「時間がない」
カノンが短く告げた。
「ミロ、娘を」
床に倒れ伏す娘をミロの方へと押しやりながら、カノンは手のひらに小宇宙を集中させる。そして、思いついたようにこう言った。
「安心しろ。どのみちオレはサガのスペアだ」
その瞬間、ミロはカノンの頬めがけて、思いきり拳をたたき込んでいた。手加減なしの、渾身の力で。
不意打ちを食らって、たまらずその場へ膝をついたカノンが、小さく唾を吐き出した。口の中が切れているらしかった。端正な顔立ちが、ひどくゆがんでしまっている。
「ミロ、聞け」
「聞けるか!」
ミロが叫んだ。カノンの言うとおり、こんなところで押し問答している時間はないと、わかっていた。だが、それでも応とうなずけないのだから仕方がない。
「ミロ。頼むから聞いてくれ」
ゴールデントライアングルの構えを、カノンが一瞬だけ解いたように見えた。ミロがはっとして眼を上げると、カノンは、素早くみずからの胸元から白薔薇を摘み取った。そして、ミロの胸に咲く深紅の薔薇の隣へ、音もなくそれを突き刺す。
「?」
薔薇の真白さに眼を奪われた瞬間、ミロは、思いがけず強い力で引き寄せられていた。
ただ重ねるだけのくちづけは、一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた。
ミロの下唇を、最後に音をたててついばむようにして離れたカノンのくちびるは、想像したよりずっとやわらかくて、驚きはしたものの、ミロはそれを不快とは感じなかった。
「愛している」
突然のくちづけよりも短く告げられたその言葉は、ひどく遠く、まるで現実味のない夢のように、ミロの耳へ響いた。
気がついた時には、ふたたびカノンがゴールデントライアングルの構えを取っており、有無を言わさず、ミロはその技を正面から受けることとなった。