ばらの騎士 3


 舞踏会や、夜会の時のような厳密なドレスコードではないにしろ、オペラハウスにも、ある程度のドレスアップは求められる。ノーネクタイでは入れない、ちょっとした高級レストランのように。

 現れたカノンは、ただでさえ目立つその容貌に加え、黒のタキシード姿という豪奢っぷりだった。ミロの方はといえば、ダークスーツに黒のネクタイという出で立ちで、並んでみると、二人の間には少しばかり格差があった。
「……行くか」
「ああ」
 促すミロへカノンがうなずいて、二人そろって歌劇場のエントランスホールを抜けた。入口付近では、きっちりと頭を撫でつけた若い係員が半券を切っており、二人が見せたチケットを見て、眼を白黒させた。貴賓席へと続く入口は通常と分かれているらしく、一般客に紛れて登場した上客に、まだ慣れない係員が泡を食ってしまったらしい。
「大変失礼いたしました。どうぞこちらへ」
 支配人と名乗る年配の男が、禿げ上がった頭を何度も下げながら、ミロとカノンを先導した。毛の長いレッドカーペットの上は、やたらふわふわしていて歩きづらく、ミロは何とも心許ない気分になる。だがおかげで、カノンの顔を見ないで歩く理由になった。
 ここに来ても、いまだ二人は先のたった一言を交わしただけだった。

「こんばんは。ようこそいらっしゃいました。お花をどうぞ」
 貴賓席への入口付近で、白いドレスをまとった少女が二人、ミロとカノンへ一輪ずつ薔薇の花を差し出した。少女らはやや緊張した面持ちで、ミロへは深紅の薔薇を、カノンには白い薔薇をそれぞれに手渡す。
「ああ、本日はプレミエですので、特別なんです。よろしければお持ちください」
 支配人のいう言葉の意味がよくわからず、ミロは曖昧にうなずいて、少女から一輪の薔薇を受け取った。女神に頼まれたパンフレットを一部購入し、促されるまま席へと向かう。
「初日の特別公演のことだ」
「え?」
「プレミエだと言っただろう。関係者の舞台挨拶がある。カメラも入っているかもな」
 何でもないことのように言って、カノンはみずからの胸元へ白薔薇を挿した。すらりとした長身がまとう黒のタキシードにそれはよく映えて、まるでモデルか何かのようだ。
「……知らなかった」
 そうと知っていれば、きちんと正装してきたものを。
 女神からの突然の招待にやや緊張していたこともあるが、事前によく確認すべきだったと、ミロは少しだけ落ち込んだ。待ち合わせに現れたのが女神ではなくカノンだったことに、今はじめて感謝したい気持ちになる。
「別に、悪くない」
 カノンの手がすいと伸びて、ミロのシャツの襟に触れた。親指がかすかに首筋へ触れる気配がして、ミロはびくりと身体を強張らせた。
「曲がってる」
「……ああ」
 背すじを伸ばし、ミロは行き場のなくなった視線を泳がせた。
 カノンの調子がおかしい。というか、これではまるで、以前のカノンに戻ったようではないか。カノンはミロを避けていたのではなかったか。
 ミロとカノンの身長差はさほどない。襟を丁寧に整える指先を見つめたあと、何気なく視線をうつした先にカノンのくちびるを認めて、ミロはおのれの頬に熱が集まるのをはっきりと感じた。
 このくちびるが、胸の傷に触れたのだ。
 正確には触れるどころの話ではなかったが、それ以上を考えると、どうにも頭に血が上ってしまうので、ミロはもう、あの時のことを思い出すのはやめようと思った。
 そんなことより、カノンは今日、女神に何といわれてここへやってきたのだろう。
 いくら女神の頼みとはいえ、さして重大な任務でもあるまい。断る理由はいくらでもあったはずだ。広場で会った時のカノンの様子から察するに、相手がミロだと知らされていなかったわけでもなさそうだ。
 孤島でミロへ行った仕打ちを、まさか当のカノンが忘れるはずもない。こうしてミロと二人で会うことに、何の感情も抱いていないはずはないのに。

「ちゃんと前を向け」
 くいと顎先を捕らえられ、ミロの視線はいやおうもなく、カノンの視線と交わることになった。
 あんなにも、ミロの眼を見ることを拒絶していたカノンの眼は、いまや何のためらいもなく、真っ直ぐにミロを見返している。美しい碧玉の瞳が、以前と同じように、ミロだけを映して輝きを増す。カノンのくちびるがふと動いた。
「ミロ――」
 その響きは、いままでに聞いたどんなカノンの声よりも、甘やかさを含んだもののように感じられた。いや、慕わしさ、なのだろうか。
 だがそもそも、今までどんな風に名を呼ばれていたのか、ミロにはもう思い出せなかった。
 手にしていた深紅の薔薇が、絨毯の上にぽとりと落ちた。それをいいことに、あわてて身をかがめる。言葉の先を聞いてはいけないような気がした。
 カノンと眼を合わせられないのは、今やミロの方だった。
「まあ、いいだろう」
 ミロの襟を整えて、満足そうな笑みを浮かべる男は、やはり以前と変わりない、ミロがよく知るカノンだった。
「どうした?」
 カノンがやや訝しげな表情になったので、ミロは取り繕うように、貴賓席へと続く段差を早足で踏みしめた。
「……すごい眺めだ」
「VIP席だからな」
 感嘆のため息を漏らすと、当然のようにカノンが応える。支配人手ずからに導かれ進んだ先は、舞台中央を正面から一望できる二階席だった。一般の座席がひしめき合うように並んでいるのに比べ、貴賓席は脚を悠々と伸ばせるゆったりとした広さが取られており、二人掛けの座席の周りは、淡いベージュ色の仕切り幕に覆われている。二人の他に人はなかった。
「だが、遠すぎる。これでは役者の顔の区別がつかんではないか」
「……。オペラグラスは?」
 カノンが呆れたような声を出した。
「そんなものあるか。だいたい、オペラ鑑賞自体、オレは初めてだ」
 何もそこまで暴露する必要はないだろうと、ミロ自身も感じていた。けれど、以前のようにカノンと会話ができることが、ひどく貴重で得難いもののように感じられ、ミロのくちびるは驚くほど饒舌に言葉を継いだ。
「……そうか」
「そうだ」
 きっぱり告げてやると、カノンが笑う気配がした。ミロも何だかおかしくなり、手元の薔薇をそっとくちびるに寄せ、カノンにわからないよう、こっそり口元をゆるませた。



 『ばらの騎士』のだいたいのあらましは、こうだ。
 元帥夫人の愛人であるオクタヴィアンは、ばらの騎士として参上した先の娘、ゾフィーと恋に落ちる。だがゾフィーにはすでにオックス男爵という好色なことで有名な婚約者がおり、オクタヴィアンにも夫人の愛人という立場があった。
 女装したオクタヴィアンが男爵に懸想されたり、剣を抜いての決闘などもあるが、最後には元帥夫人が若い二人のために身を引き、オクタヴィアンとゾフィーが抱擁を交わして、終幕となる。

 けれど第二幕を終えたところで、ミロの顔つきはやや難しいものになっていた。
「どうした」
「男爵も、オクタヴィアンも、オレは好かん」
 手にしていたオペラグラスをカノンへ返しつつ、憮然としてミロが応えた。
「男爵は、女のためになりふり構わぬその態度が、不愉快だ。オクタヴィアンも、元帥夫人という想い合う相手がいるにもかかわらず、ゾフィーに心を置いている。理解しがたい感情だ」
「なるほど」
 オペラグラスと引き替えに、あらかじめ頼んでおいたペリエをミロへと差し出して、カノンがうなずいた。
「だが、オクタヴィアンはともかく、男爵の気持ちはわからなくもないな、オレは」
 その思いがけず真摯な横顔に、ミロは思わず瞳を瞬かせた。
「好いた相手を、どんな手段を使ってでも手に入れたいと願うのは――本気で惚れているなら、当然じゃないか」
 ミロはとっさに返す言葉を思いつかなかった。男爵は、下品で横暴な手を使い、ゾフィーを自分の花嫁にしようと企てる。そんな男にカノンが賛同するとは、正直意外だったのだ。いや、正確には、まるで実感をともなったようなセリフを口にするカノンが、意外だったというべきか。
「……そういう相手が?」
 口にしてしまってから、ミロはしまったとくちびるを噛んだ。無遠慮な質問をしたのだと、気がついた時には遅い。
「それを聞くのか、おまえが」
 苦笑して、カノンは緩慢な動作で背もたれに身体を預けた。二人掛けの椅子は、ソファではないので沈み込むことはないが、その重みに引きずられないよう、ミロは思わず背すじを伸ばす。
「もう、うすうすは気づいてるんじゃないのか」
 素手で心臓を鷲づかみにされた気がして、ミロは身構えた。酷薄な笑みを浮かべるカノンからは、僅かに苛立ったような気配が感じられた。
「オレは」
 ミロは言いよどんだ。何を言えばいいのか、とっさに判断がつかなかった。
 確かに、ここ数日の間で思うところは幾つもある。だが、ミロはカノンからまだ何も聞いていないし、何の確証も得られていないのだ。
 それに、今のカノンの質問はフェアでない。みずからは何も言わずして、ミロから答えを引き出そうとするその態度が、癪に障った。
「まあいい」
 カノンはいつもの調子に戻ると、小さく肩をすくめ、手元のパンフレットをぱらぱらとめくりはじめる。
「答えは、『さてな』だ」
 おまえの好きにしろといわんばかりに、カノンはひどく突き放した物言いをする。
 だが、では、どうすればよかったのか。
 ミロの胸の内のどこかが、ちくりと音をたてたような気がした。



 第三幕がはじまると、いよいよ舞台も大詰めで、大団円を迎えるクライマックスへと突入する。
 場面は郊外にある居酒屋の一室で、女装に扮したオクタヴィアンが、ゾフィーの父親の前で男爵の醜態を見せつけてやり、男爵とゾフィーとの婚約を破談に持っていくという名場面だ。オクタヴィアンの愛人である元帥夫人も登場し、彼女の潔い引き際も、第三幕の見せ場でもある。

 ミロは残り少なくなったペリエを一気に煽ると、隣の座席に腰掛けるカノンの横顔を盗み見た。カノンはときおりオペラグラスを傾けては、手元のパンフレットと何かしらを見比べているようで、少なくともミロよりはオペラに関心を示しているようだ。

 オペラの終幕まで、あと二十分程度。この後の予定を、ミロは何も考えていなかったことに気づく。聖域に戻るには、まだ少し早い時間のような気もするし、だからといって、このままカノンと二人きりでいるのも、なんとなく落ち着かない。けれどカノンへ素っ気なく別れを告げる気にも、ミロはなれなかった。

 刹那、ミロは僅かに場内の空気が揺れるのを感じて、神経を研ぎ澄ませた。奇妙な違和感とでも呼べばいいのか、何かが、どこかおかしい。胸が落ち着かない心地がする。
 かすかな火薬の匂い。――火薬?

 ふと目線を上げてみれば、天井から高くつり下がったシャンデリアが眼に入った。まぶしく煌めく透明な光彩が、一瞬、赤に染まる。

 直後、鼓膜を破るような轟音とともに、舞台の中央が大きく爆ぜたのを、ミロは見た。