ばらの騎士 2
その時すでに、カノンは、小宇宙による思念波で、直接女神へ救援を呼びかけていた。
遠目にも、ミロの様子がおかしいことはわかっていた。俊敏な動きを誇る彼にしては動きが鈍いし、足下はふらついている。どこかに怪我を負ったのかも知れない。
黄金聖闘士として不屈の肉体を持つミロやカノンにとって、多少の負傷はさして脅威ではない。だが、何せ相手は異形の化け物だ。万一のことがあってからでは遅い。
苦しそうに息を継ぐミロの姿を見て、カノンは、みずからの心臓が急速に冷えていくのを感じていた。
倒れ伏したミロを目の当たりにした時、血の気が引くとはこういうことかと、カノンははじめてその意味を理解した。浅い呼吸を繰り返す姿に、嫌な予感が頭を掠める。
女神はすぐに人を向かわせると約束してくれたが、それが正確にいつになるのか、確認を怠った自分に、カノンは舌打ちしたい気分だった。
次いで思念波の経路をサガに切り替えたのは、現教皇職であり、実質采配を振るうことになるであろう兄の方が、具体的な状況について説明できると判断したからだ。
早くて三時間、とサガは応えた。もっと何とかならないのかと、いつになく切迫したカノンの様子に、サガも若干うろたえたようだ。だが、いかに光速を誇る黄金聖闘士といえども、海という自然の隔たりを挟んでいては、できることとできないことがある。
カノンは悔しさに歯噛みしたが、ごねたところでどうしようもない。表向き冷静さを装って、サガとの思念波を終わらせたあと、カノンはミロの安全を確保するべく、ゴールデントライアングルの構えを取った。
楽園と見紛うほどの、美しい島だった。
けれど今のカノンには、空の青さも海の碧い輝きも、まるで同じ色にしか感じられない。
カノンにとって、ミロに会えない日々は、もはや世界を感じられないのと同義だった。何を眼にしても、ことごとく同じ色にしか見えないモノクロームの空間で、ミロの周りの空気だけが、カノンに世界の色を教えてくれる。
ミロに対して抱いていたはずの、感謝や憧憬といった想いが、いつしか恋情と呼べるものにすり替わっていることに、カノンは、もうずいぶんと前から気がついていた。
けれどそれが劣情をともなうものに変化した瞬間、急に空恐ろしくなった。
想うだけならいい、けれど、奪いたいと願う獣の衝動は、いつしかミロに牙を剥く。
情動に突き動かされるような行為に、屈する男では決してない。だが及ばずとも、そのような感情を向けられることを、ミロはよしとしないだろう。
そして悟られたなら最後、ミロとの関係もそこで終わる。
もう二人きりで会うべきではないのかも知れないと、カノンは感じていた。
けれどそれでも、一度自覚してしまった想いを、知らぬふりで封印することは、とてもできそうにない。
ミロに会いたい。会って、その名を呼びたい。
そうしないと、昨日までの自分が、どうやって呼吸していたのかさえ忘れてしまいそうになる。
いつから自分はこんな風になってしまったのか、ずっと以前からだったような気もするし、つい最近のことのような気もする。
まるで中毒のようだ。ミロという名の心地よい毒に冒されている。
とにかく何でもいい。ミロの顔が見たい。声が聞きたかった。
ほんの少し、顔を見るだけだと自分に言い聞かせて、通い慣れた天蠍宮へと足を運ぶ。
けれどそれがかえって自分自身を追い詰める結果になることを、カノンは知った。
カノンはもう、ミロの双眸を正面から見つめることができなくなっていた。
その強い輝きを放つ真っ直ぐな瞳にのぞき込まれたなら、きっともう、隠し通すことはできない。この狂おしい胸の内ばかりは。
息苦しさにあえぐミロは、自力で水も飲み干せないほど憔悴しきっていた。ミロが思った以上に消耗していることに、カノンの焦燥は募るばかりだった。水を求めて喉仏を上下させるミロを捨て置けるはずもなく、カノンは恐る恐るそのくちびるへ水を運んだ。
ミロに落とす初めてのくちづけが、まさかこんなかたちになろうとは、いったい誰が予想しただろう。
熱い吐息を漏らすミロのくちびるは、燃えるように熱く、そして蕩けるように甘かった。キスですらないその行為を、永遠にこの身に刻みつけられたらいいのにと、カノンは強く願った。人には、どうして忘れるという機能がついてまわるのだろう。
半ば意識のないミロの身体から、毒を吸い出すという大義名分が与えられたのは、カノンにとって僥倖か、またはその真逆か。
日に焼けた健康的で滑らかなミロの肌は、カノンの情欲をいっそう煽った。匂い立つような肌にくちびるを寄せた瞬間、本来の目的を忘れそうになる。
最低だという自覚はあった。だがそれでも抑えられない欲望は、もはやカノンにもどうすることもできなかった。
高い声をあげてわななくミロに、たまらなく欲情した。ミロの声が聞きたくて、わざと傷口をえぐるように舌を動かした。
こんなミロは見ない。もっとミロを感じたい。痛みにゆがむ表情や、戸惑う顔。驚く顔でも、怒りでつり上がるまなじりでも、何でもいい。もっと。
これ以上は危険だと、今なら間に合うから引き返せと、良心が何度もささやいた。だが、焦がれるほどに求めていたミロの熱を、今さら手放すことはもうできない。
今この瞬間に天が割れ地が裂けようとも、ミロだけは絶対に離さない。
その肌を味わいながら、カノンは心中で、誰にともなくそう誓った。まるで祈るみたいに。
そうして、脈打つ鼓動のありかを確認しようと、ミロの心の臓へ手を伸ばす。ミロの身体が大きく痙攣した。外気に晒されて、かたく起ちあがった乳首に指先が触れたらしかった。
気がつけば夢中でミロの上着を捲り上げていた。しっとりと汗ばんだミロの背すじは滑らかで、無駄な肉のついていない引き締まった脇腹は、触れていて心地よかった。背骨のかたちを一つ一つ確かめるように指先を沿わせれば、ミロは力なくカノンの髪先を引いた。そんなわけはないのに、まるでもっとと請われているような錯覚を起こして、カノンは身を震わせた。
――欲しい。
言葉にはならなかった。言ってはいけないと、どこかでおのれを諫める声がした。今ならまだ、気の迷いで終わらせられる。
こんなにも弱々しく、か細いミロの声を、他の誰にも聞かせたくない。
誰よりも誇り高くあろうとする男のこんな艶態を、自分以外の誰にも見せるものか。
けれど。
カノン、と。
名を呼ぶミロの声には明らかに恐怖と、そして懇願が混じっていた。
――おまえでも、そんな声が出せるのか。
誰に向けるべきかわからない、胸に宿った青い炎は一瞬で、次瞬、カノンは一気に青ざめた。
いったい何をしているのだ、自分は。
ミロを救いたかった。解毒だと宣言した行為は、こんなことをするための方便ではなかったはずだ。ミロの傷口はいまだ熱を持ったまま、燃えるように熱い。迎えを寄越すと、女神が、サガがいっていた時間まであとどれくらいある? ミロは助かるのか。もしも助からなかったら?
カノンは戦慄した。ミロのいない世界など、考えたこともないし、考えたくもない。
「怪我もなく何よりだ。多少頭のふらつきは残っているだろうが、少し休めばすぐに回復するそうだ」
「ああ」
素っ気なく応えると、自分と寸分違わず同じ声で語りかけてくる兄の手から、半ばひったくるようにして、カノンは検査結果の書かれた紙面を受け取った。
「ミロは」
「眠っている。薬を与えたのでしばらくは起きないだろう。ひどく体力を消耗しているようだからな」
どこか突き放すようにも感じられるサガの声音だが、カノンは別にかまわなかった。もとより、聖域内で懇意にしている黄金などミロの他にはなく、それがたとえ血を分けた実兄であろうとも、同じことだった。
「カノン」
正面から、カノンの目をひたと見据え、サガが言った。
「――やりすぎだ」
一瞬、胸のどこかがぎくりと落ち着きなく鼓動を刻んだような気がしたが、カノンはあえて気づかぬふりをした。
「何のことだ」
「とぼけるな。毒素の分析のためにミロの衣服もすべて回収した。なぜおまえの唾液がミロの上着から検出されるんだ」
「毒を吸い出した。他に方法がなかった」
用意していた答えを、すらすらとカノンはくちびるに乗せた。責められるいわれはないと、いっそ傲岸とも取れるまなざしで、サガの瞳を見返してやる。だが、セリフを用意していたのは、サガの方も同じだった。
「そうか。だが、まだ続きがあるぞ。おまえの指紋がミロの身体のどことどこから検出されたのか、すべて話して聞かせようか」
押し黙るカノンへ、サガは小さく肩を落とし、一つ静かにため息をついた。それはどこか憐れみのようなものを含んだ仕種にも似ていて、カノンは小さく舌打ちする。
「結果として、おまえの処置のおかげでミロが助かったことにかわりはない。……その点については、よくやったと褒めておく」
「ぬかせ。偉そうに」
「偉そうなのはわたしか? ミロを追い詰めておいて、素知らぬふりを決め込むおまえこそ何様だ」
サガが、ミロのことでこんなにも饒舌になろうとは、カノンも予想だにしなかった。現教皇として、サガなりにミロの身を案じるがゆえか。それともたんに、慣れない兄貴風を吹かせたいがためか。
いずれにせよ、サガの痛烈な指摘は、カノンにとって突かれたくないところばかりを的確に突いた。
それにそこまで知られているのなら、もう、ミロへの想いを、少なくともサガには、隠し立てする必要はないのだと、カノンは悟った。
「それで? 何が言いたいんだ、兄さん」
カノンがわざとらしく呼びかけると、サガは一瞬不快そうに眉をしかめたが、その挑発に乗ることはしなかった。
「……ミロは勘が鋭いくせに、こういうことには疎いところがある。おまえがいくらわかりやすく態度に出していても、口で言わないと伝わらないこともあるだろう」
カノンは思わず顔をゆがめた。そんな風に、誰かにミロのことを語られたくはなかった。相手がサガだというのも気に障った。
そんなことはとっくにわかっている。だが、伝わってしまえば、そこで終わりだという気持ちがカノンには強くあった。
やっと確保した、ミロの側にいても不自然でないポジションを、みずから手放すのが、こんなにも恐ろしいことだとは思わなかった。
サガにはわからない。こんな風に誰かを想ったことがないから、平気な顔で説教ができるのだ、この兄は。
「……言えるか、こんなこと」
「ならばはじめからその想いを封印しろ」
サガがぴしゃりと言い放った。カノンとまったく同じ、長いまつげに縁取られた碧眼は、まさに神の化身と呼ばれるにふさわしい厳格さに満ちていた。だが、尊大ともとれるサガの口ぶりに、カノンが素直にうなずけるはずもない。
「おまえのしていることは、まるでミロを弄んでいるのと変わらない。四六時中つきまとっていたくせに、今度は気まぐれで放り出すのか。ミロは犬猫ではないのだぞ」
「気まぐれじゃない。わかったようなことを言うな、何も知らないくせに」
「そうだな、わたしは何も知らない。わかっているのはただ、ここのところ、ミロがひどく苛立っているということだけだ。それはなぜだか、理由を考えたことがあるのか?」
いわれるまでもなく、ミロの苛立ちはカノンにも伝わっていた。これまでと打って変わった、カノンの不自然なまでの素っ気なさに、ミロは当然気づいているだろう。人と話す時に視線も交わせないような男だと、ミロは呆れているだろうか。またはサガが指摘するように、気まぐれで自分勝手な男だと腹を立てているのだろうか。
そのどちらだとしても、カノンとしてはいっこうにかまわなかった。
はじめからどうでもいい存在ならば、相手の態度が変わったところで、ミロは苛立ったりしない。もともと、興味のないことにはとことん淡泊な男だ。自分から何かをひたむきに求めるようなこともしない。
そんなミロにとって、だから少なくとも歯牙にもかけられない存在ではなかったのだという確証がつかめたことに、カノンは心のどこかで暗い優越感に浸ってもいた。
ミロの青い双眸が、カノンを探してさまよい、そしてその姿を認めた瞬間、何かしら感情の波に揺れる。
そのさまは、眺めていて心地よかった。たとえそれがどんな感情の色だとしても。
サガの言うとおり、気まぐれに弄んでいるのとどう違うのかと問われれば、カノンには返す言葉が見あたらなかった。ミロの苛立ちの原因を知っていても、本音を告げたところで拒絶されるのが恐ろしくて、自分にとって一番楽な方法をカノンは選択した。ミロの気持ちなど考えもせずに。
「わたしが言いたいことは一つだけだ」
サガが深く息をついた。
「これ以上ミロを振り回すな。原因を作ったのはおまえだ。ミロに対して責任と義務がある。二十八にもなって、わたしにこんな風に叱られるのは、おまえもうんざりだろう?」
サガの話し方はカノンの苛立ちをよりいっそう煽るものだったが、告げられた内容は、まったくもって正鵠を射ているとしか言いようがなかった。
サガにいわれるまでもなく、わかっていたことだ。このままでいいはずはない。ミロにとっても、自分にとっても。
だからカノンは、女神から急な思念波が飛ばされてきた時、これは最後のチャンスなのかも知れないと、一も二もなく返事をしたのだ。
「喜んで。……わたしを指名してくださったことに、感謝します。女神よ」