ばらの騎士 1
「一種の興奮剤に似たようなものが含まれていたのは間違いないですね。しばらく痛みは残るでしょうが、これくらいならかすり傷です。痕にも残りませんし、後遺症もないでしょう。もっとも、過去に同じ症例がないのでお約束はできませんが。……まあ大事を取ってしばらく療養していればすぐに元通りです。薬は食後に一日三回、二種類を一緒に。痛み止めも処方しましたからお渡しします。替えの包帯はこちら。薬湯を使った後に交換してくださいね。……聞いているんですか、ミロ?」
まるで医者のような口ぶりで、淡々とムウが告げる。傷口に巻かれた真新しい包帯を眺めていたミロは、名を呼ばれたところでゆっくりと面を上げた。
「ああ、すまない。……何だって?」
ムウは若草色の瞳を僅かにすがめると、ため息を一つついてから、一枚の紙面をミロに手渡した。
「ここと、ここをよく読んでおいてください。今言ったことがだいたい書いてありますから。それと、薬はなくなるまで飲み続けること。途中で飲むのをやめたり、勝手に減らしたりしたらいけませんよ。症状は、とりあえず異常なしということだけわかればあとはいいでしょう」
卓上に散らかった消毒液や包帯をてきぱきと片づけつつ、ムウが簡易椅子から腰を上げた。ミロはうなずいて、側にあった上着を羽織ろうと手を伸ばす。
「ああ、いいですよそのままで。怪我人なんですから大人しくしていてください」
「だが、世話をかけた」
「通り道ですし、慣れてますからお気遣いなく」
ミロの包帯の交換は、ムウの手によるものだ。幼少時から手先が人一倍器用なムウは、同輩の傷の手当てといった、黄金聖闘士としては本来なら携わることもないような用向きに駆り出されることがしばしばあった。特に、牡牛座のアルデバラン、獅子座のアイオリア、蠍座のミロの三者は、昔から生傷が絶えないことで有名で、その世話になる機会も多かった。
けれどこうしてムウ手ずからに薬を渡されるのは、ミロの覚えている限り、ここ数年はなかったことだ。ムウなりに、ミロの身体を案じているのだろう。
グラード財団の管理下にある、エーゲ海沖の孤島から、ミロが帰還を果たしたのはつい三日前のことだ。巨大サソリの猛毒に冒されたミロは、一命を取り留めたものの、最後には意識を失い昏倒するという体たらくで任務を終えることとなった。
目が覚めた時、視界に入ってきた見慣れない天井が、聖域内の医療施設のものであることに気づいた時、ミロは愕然とした。すでに治療は終えた後で、聞けば丸一日以上寝入っていたという。
報せを受けた女神は、日付が変わったばかりの夜更けにもかかわらず、サガをともない、躊躇なく夜着姿で医療施設を訪れた。無事でよかったと儚げに微笑む女神に、ミロは膝をついて謝意を述べ、ただ深く頭を垂れることしかできなかった。けれどそれがかえって女神を萎縮させたようで、危険な目に遭わせて申し訳ありませんでしたと、女神は菫色の瞳を悲しげに潤ませた。
責は当然ミロ一人が負うべきものであったが、あろうことか女神に罪悪感を負わせ、その尊い涙を流させたことに深く恥じ入り、ミロはあらためておのれの失態を悔いた。
結局、任務の目的が果たされることはなかったが、報告書はすでにカノンから受け取っていると女神が言った。それから、しばらくゆっくり身体を休めるようにとも。
「そうだ、忘れていました。ミロ、これを」
天蠍宮からの去り際に、ムウは一通の封筒をミロへ差し出した。蜜蝋で封印が施された、光沢のある上質なものだった。
「女神から、あなたへと」
礼を言い、ミロがさっそく封を開けると、中には薔薇の刻印が押された一枚の招待券が入っていた。
*
『ばらの騎士』は、リヒャルト・シュトラウス作曲による、かの有名なオペラ喜劇である。
十八世紀ウィーンの貴族社会では、求婚の証として花嫁に「銀のばら」を送る習慣があり、その使者のことをこう呼んだ。ただしこれについてはあくまでフィクションであるなど諸説あり、はっきりと断定はできないようだ。
憂いある元帥夫人と、若い娘ゾフィーの間で揺れ動く『ばらの騎士』ことオクタヴィアンは美しい青年だが、メゾ・ソプラノを要求されるため、ズボン役と呼ばれる男装した女性歌手が演じることになる。
女神から送られたチケットの演目にもう一度眼を落とし、ミロは落ち着かない様子で辺りを見まわした。腕時計に目をやると、待ち合わせの刻限までにはまだあと三十分ほど余裕がある。若干早く到着しすぎたきらいがあるが、まさか女神を待たせるわけにもいかないので、順当なところだろう。
あれから、ミロの傷の治りは順調だった。持ち前の体力や回復力のおかげもあり、すっかり体調も持ち直した。傷痕も、皮膚の色がほとんど肌色に近いピンク色になっており、完治するのは時間の問題だろうとムウが言った。何もかもがすべて元通りになるまで、あとほんの少しだった。――カノンとのことだけをのぞけば。
ムウの言ったことは事実だった。グラード財団が誇る医療チームによる、診断の分析結果が書かれた紙面によれば、確かに、あのサソリの毒には興奮を催す類のものが含まれており、ある種の混乱状態に陥る場合もあるとあった。つまりはそれで、すべての説明がつく。
意識が朦朧としていたとはいえ、カノンにされた仕打ちをミロが忘れられるはずもなかった。どころか、今も思い出すだけで頭の芯が真っ白になり、癒えかけの傷痕が持ち得ないはずの熱で疼く。
――ミロ。
カノンの切なげな声が、耳にこびりついて離れない。眼を閉じれば、苦しげに眉を寄せる表情が、今もまざまざとまぶたの裏に思い浮かぶ。
あの声音が、まなざしが、肌の熱が、毒の作用によるものだった。
ムウの言葉を信じて疑わず、そうだったのかと、素直にうなずける頭ならよかった。
同性の、それも同輩であるミロに対して欲情し、しかも相手に悟られたなど、カノンにとってこの上ない失態だろう。
だがそれも不可抗力であったのなら、また別の話だ。
正常な精神状態ではなかったのだから仕方がない。今回のことは、すべて毒のせいだと、悪い冗談だったと、ひと言ミロへ告げればすむ話だ。怪我を負ったのではないにせよ、似たような診断結果が記された紙面を、カノンも受け取っているはずなのだから。
けれど、あれからカノンは、ただの一度も天蠍宮を訪れない。
それが何を意味するのか。
単純に考えて、あのような無体を強いた相手に、むざむざ顔向けができる心境ではないという理由も考えられる。けれどカノンがそんな殊勝な男ではないことくらい、ミロの方も重々承知していた。
眼を合わすことがなくなっても、ミロの元を訪れることだけはやめなかった男が、なぜ今姿を見せないのか。
考えられる可能性は、おそらく、幾つもない。
孤島へ向かった時とは別の意味で、ミロは今、大いに頭を悩ませていた。
それに、その真意を知りたくとも、もともと疎遠になりかけていたこともあり、あれからミロは、カノンに会う機会をことごとく逃していた。
蠍座の黄金聖闘士が同じサソリの毒に倒れるという事態は、聖域でも前代未聞の話題の種で、天蠍宮にはしばらくの間、見舞いという名目でミロをからかいに訪れる同輩が後を絶たなかった。
中心はデスマスクやアフロディーテといった年中組に偏るが、天秤座の童虎までもが、無邪気な顔で蠍酒なるものを持参して訪ねてきたのには、さすがのミロも傷口をえぐられるような思いだった。唯一、乙女座のシャカだけが、「無様というべきかね?」と侮蔑とも非難ともとれる声を浴びせてきたが、ミロには逆にその方がありがたかった。
――すまなかった。
ひどく力ない声音だった。その言葉をどんな思いでカノンが口にしたのか、ミロにはもう想像もつかなかった。
ジャケットのポケットに入れていた携帯電話が、着信のバイブレーションを告げた。平素、こういったものを黄金聖闘士であるミロらが持ち歩くことはほとんどない。何かあれば小宇宙の思念波で事足りるからだ。
だが女神は年頃の娘らしく、外界へ出かける時は一般人と同じ通信手段を使うことを好んだ。わざわざ聖域の外で待ち合わせをしたがるのも、女神のささやかな楽しみの一つなのだろう。
「はい。……ミロです」
応答ボタンをすぐさま押したものの、どう応対したらいいものか、ミロは一瞬迷い、一拍置いて返事をした。その微妙な間がおかしかったのか、電話の向こうで女神が笑う声がした。頬が赤く染まるのを自覚しつつ、ミロは何となくみずからの靴先へと目線を落とした。
『沙織です。今どこに?』
「劇場前の、噴水広場ですが」
待ち合わせによく使われる場所らしく、開演時間が迫ったこの時間、煉瓦の石畳が敷き詰められた広場は、多くの人々でにぎわっていた。開場はすでに始まっており、連れだった男女が仲睦まじく腕を組み、ホールへと消えていく姿が多く見られた。
「……何かあったのですか」
上に立つ者といえども、城戸沙織という少女は、決して傲慢な独裁者などではない。待ち合わせの時間が近くなっても、ここへ来られない理由ができたのかも知れないと、ミロは表情を険しくした。
『いえ、たいしたことではないのですが』
女神がそこでいったん言葉をきったので、ミロは少しだけ身構えた。何かあったというのなら、すぐにでも女神の元へ馳せ参じる準備はできている。
『ミロ。お願いがあるのです。聞いてくれますか』
「無論です。何なりと」
迷いなく応えながら、周囲に油断なく視線を走らせて、ミロはぎくりと身体を強張らせた。人混みの向こうに、見知った影が見えたような気がしたからだ。
『申し訳ないのですが、わたくしは、今日のオペラに行けなくなりました。でも、友人からもらい受けた貴重なチケットを、無駄にしたくはありません』
鈴を転がすような女神の声が、まるで諭すように、ミロの耳へ響く。
『勝手ではありますが、代わりの者を向かわせました。貴方もよく知っている人です。わたくしの代わりに、二人でオペラを楽しんできてください。貴賓席なので、きっと舞台がよく見えます。――そうそう、せめてパンフレットは欲しいので、一部購入をお願いします。領収書は、グラード財団で切ってくださってかまいません』
不敬だとわかっていても、もう、ミロには、女神の言葉が届いていなかった。
いやおうもなく周囲の視線を惹きつけるその長身は、ミロの姿を眼にとめると、迷いのない足取りで広場を突き進んだ。その軌跡にあわせ、石畳の上にあふれかえっていた人垣が、まるでモーゼの十戒の海のように割れる。
『では、よい夜を。カノンにもよろしく伝えてください』
通話が終わり、通信音だけが響くようになったことを確認すると、ミロは手にした携帯電話の電源を、そっとオフにした。