真夏のエデン 3
カノンは無言で木陰にミロを運び込み、適当な木の幹にその身体を寄りかからせた。どこで見つけたのか、側には澄んだ泉がこんこんと湧き出ている。
朦朧とする意識の中、黄金聖衣を脱ぎ去ったカノンが、傍らに膝をつく気配を感じて、ミロはゆっくりと首を巡らせた。
カノンの言うとおり、はじめから聖衣をまとって戦っていればこんな傷は負わなかった。すべてはおのれの慢心が招いた結果だ。ミロは悔しさにくちびるを力なく噛みしめる。
浅い呼吸を繰り返すミロの視界は、熱に浮かされているせいかひどくおぼろげで、今カノンがどんな顔をしているのかわからないのがせめてもの救いだった。
そっと差し出されたカノンの手のひらからは、透明な水の匂いがした。短く息をつきながら、水を求めてあえぐミロのくちびるに、カノンはぎこちない動きで手の杯を傾けた。
けれど水はくちびるを僅かに濡らしただけで、うまく嚥下することができず、ミロは息苦しさに咳き込んだ。霞む視界の中で、辛そうに眉をひそめるカノンの表情が眼に入り、なぜおまえがそんな顔をすると、ミロは思わず訊ねたくなった。カノンに聞きたいことは、幾つもある。
なぜ、眼を見なくなった。
理由も告げず遠ざかるなら、どうしてはじめから側に近づいた。
すげなくされてもいっそ愉快な顔をしていたのは、ふりだったのか。
けれど今のミロにはくちびるを動かすことさえ億劫で、そしてそれ以上の思考にふける行為は、頭の熱を上昇させた。そのことを自覚し、諦めて、ミロはそっと瞳を閉ざす。
カノンが、小さく息をつく気配がした。ごつごつした木の幹と頭との間にそっと差し入れられた手のひらが、ひどく優しく髪を梳く。ミロはされるがまま、顎を小さく仰け反らせた。
深く地肌まで差し入れられた手指が、ミロの頭を何度も撫でた。くらりとめまいにも似たような感覚に襲われて、身体が仰向けに倒されたのだとわかるまで、やや時間がかかった。
「……ん」
くちびるに、やわらかな感触が降りてきた。熱を吐き出そうとして僅かにあえいだ口内へ、冷たい水が少しずつ、ゆっくりと流し込まれる。焼け付くようだった喉が、その清涼な流れに癒されるようで、ミロは思わずため息を漏らした。
繰り返されるその行為が何であるのか、考えている余裕はなかった。ただ、今は喉を潤すそれがもっと欲しい。もっと。
ミロは夢中であえぎ、喉を動かした。
次いで、胸に降りてきたやわらかな感触には覚えがあった。それがカノンの髪だとわかると、ミロは無意識に身をすくめた。カチリとにぶい金属音がして、ゆるゆると胸元のファスナーが下ろされていく。カノンの歯が、胸の留め具を噛んだ音なのだとわかった。
まるで焦らすような音をたてていたファスナーが、ミロの抵抗が弱いとわかると、今度はへその辺りまで一気に引き下げられた。外気に晒されて粟立つ肌の感覚が不快で、ミロは反射的に身を捩る。けれど熱のせいか、うまく身体がいうことを聞かない。その上カノンの頭の重みが、胸元にずしりとのしかかっていた。
「よ、せ」
辛うじて抵抗を示すミロの両手を頭の上でひとまとめにすると、カノンはミロの傷ついた方の胸のニット地の部分だけを、勢いよくはだけさせた。一見してかすり傷にも見えるが、赤紫色に腫れあがった毒々しい傷口は、サソリの毒の凶暴さを物語っている。
傷口へ押し当てられた感触に、ミロの身体は跳ねあがった。それがカノンのくちびるだとわかり、ふらついてはっきりしなかった意識がやっと少しだけ覚醒する。
「解毒だ。……大人しくしていろ」
低い声でささやくと、カノンはミロの傷口を、強く強く吸い上げた。
声にならない声をあげ、ミロは身もだえた。
全身が、燃えるように熱い。けれどそれ以上に、カノンの舌の熱さがミロには恐ろしかった。
はじめは吸い上げるだけだったくちびるが、今はついばむように傷口をなぞり、その舌先は、まるで肉をえぐるように蠢いている。
「……ッあぁ……っ!」
ミロは思わず高い声をあげて仰け反った。それがおのれの声だとにわかには信じがたくて、ミロの全身は、一瞬、冷水を浴びせられたかのように硬直した。胸の上にのしかかるカノンの髪を引いても、くちびるはいっこうにミロの肌から離れようとしない。
カノンが傷口を吸っては吐き出してを幾度か繰り返すたび、癖の少ないやわらかな髪がさらさらと肌をくすぐった。今までに感じたことのない、むず痒いような心地に、ミロは歯を食いしばる。
「!」
まただ。カノンの舌先が、傷口を押し込むように、ミロの肌の上を行き来する。吸い出すというより傷痕を確かめているのに近い。それを何度か繰り返したあと、今度は舌でねっとりと舐めあげられ、痛いほどきつく吸われた。傷口にカノンの歯が当たる感触がして、ミロは大きく腰を浮かせたが、もう抵抗はしていなかった。できなかったというのが正しい。力が入らないせいもあり、ミロは草むらに両の腕を投げ出して、カノンのされるがままになっていた。
「あ」
ふたたび、ミロの身体が大きく跳ねた。気がつけば、カノンの右手はミロの心臓の上に添えられていた。まるで鼓動を確かめようとするように。身体が大きく跳ねたのは、左胸の尖りをカノンの小指が掠めたせいだ。
「ミロ」
――なんて声でオレの名を呼ぶ。
祈るように切なげで、悲しげな声音だった。呼ばれたミロの方が泣きたくなるような。
驚きに眼を瞠ると、顔を上げたカノンと視線が交わった。こうして正面から互いの眼の色を確認するのは、もう何日ぶりになるのか知れなかった。カノンは、眼を逸らさなかった。
けれどそのせいで気づいてしまった。
その深い碧眼の奥に灯された、情欲の灯火に。
いつの間にか背に回されたカノンの手のひらが、ミロのタンクトップの裾から無遠慮に侵入し、直に背すじへ触れた。背骨に沿って、指先で背をゆっくりとなぞり上げるその仕種は、間違いなく劣情をもよおした男のそれで、瞬間、ミロの背すじをぞっとするような何かが駆け巡った。
不穏な何かを察知して、ミロは無意識に腰を引いてカノンから逃れようと身を捩る。だが、ぐるぐると回る視界のせいで、それは叶わぬことと知った。
世界が回る。上なのか下なのか、右なのか左なのか、自分が倒れているのか立っているのか、それすらわからない。何でもいいからすがりたくて、手を伸ばした先にあったのは、カノンの髪だった。さらさらとしてつかみどころが難しいそれは、まるで頼りない命綱のようだったけれど、今のミロにとって、ないよりはましだった。
小さく、本当にほんの僅か、カノンのくちびるが動いた気がした。声にはならないそのセリフが何だったのか、ミロにはわからなかった。カノンはふたたび顔を伏せると、ミロの傷口にくちびるを寄せ、音を立てて強く吸い上げた。
「ぁ、っう」
カノンの舌が蠢いて、指先が背すじをなぞるたび、それに合わせてミロの身体はびくびくと痙攣した。声にならない喘ぎを幾度かあげた。その反応が、声が、カノンの欲望を煽っているかも知れないと気づいていながら、ミロにはどうすることもできなかった。熱のせいか、それとも毒にやられたせいか、もうどうにでもなれという投げやりな気持ちもあった。
だが、ミロの意識を現実に引き戻したのは、他ならぬカノン自身だった。覆いかぶさるカノンの股間が、力の入らないミロの膝の上で、顕著な反応を示していた。
この先何をされるのか、はっきりとしたかたちで突きつけられたような気がして、ミロの背すじを、ふたたび悪寒が走り抜けた。
こんなことはやめさせなければ。
けれど、身体が思うように動かない。
もう、胸の痛みは感じなかった。痛みよりもせり上がってくる別の感覚で、いまや頭は一杯だった。これは熱でも、サソリの毒などでもない。もっと別の――何か。
「か、」
うまく動かないくちびるを何とか開いて、ミロは祈るような気持ちでその名を呼んだ。
「カノン――」
ぞくぞくと背すじを凍らせる悪寒だけが、今、ミロの正気を保つ最後の一線だった。眼を閉じると、まぶたの裏で無数の星がちかちかと舞った。朦朧とする意識を何とか振り払い、ミロはカノンの頭に手を添えて、その髪先を引いた。
懇願するように漏れたおのれの吐息が、ため息なのか喘ぎだったのか、ミロにはわからない。
ただカノンが、子どものように頑是ない仕種で顔を上げた。カノンは、腕の中に組み敷いたミロを見下ろすと、ゆっくりと何か言葉を継ごうとして、それができないことに気づいたようだ。かたちのいいくちびるは、たどたどしく動いて、やがて僅かに痙攣のような動きを見せた。
それを見たとたん、ミロはほとんど反射的に、カノンを怒鳴りつけていた。
「口を、濯げ。猛毒だ……!」
まだこんな力が残っていたのかと、自分でも驚くほどの勢いで、ミロはカノンを思いきり突き飛ばす。よろめいたカノンは曖昧にうなずいて、ミロへ背を向けると泉の側に膝をついた。言われたとおり大人しく口を濯ぐカノンを見て、ほっとしたとたん、全身を強い疲労感に襲われて、ミロはそのままゆっくりと眼を閉じた。まぶたの裏に、もう星は見えなかった。
「――すまなかった」
耳に響く低いその声音から、すでにカノンの身体から熱が抜けていることを、ミロは知った。
急速に、ミロの意識は遠のいた。もう指一本動かすことはできそうにない。何も考えたくはなかった。今はただ、何も考えずに眠りたい。
ふたたび、カノンが側に膝をついた気配がした。もう悪寒は感じなかった。
薄れゆく意識の中で、責め苦から解放された安堵感に浸るよりも、久しぶりに正面から見据えた碧眼を忘れないように、もう一度、その碧の深さを思い出しながら、ミロは深い闇の中へ身をゆだねた。