真夏のエデン 2
洞窟内の空気はひんやりとしていて湿っぽく、独特の異臭が漂っていた。雨だれの落ちる音がそこかしこで聞こえ、足場はぬるぬるとして滑りやすい。だが、常人ならば、眼を開けているのか閉じているのかさえわからない暗闇の中でも、黄金聖闘士である二人なら、さほど不自由することなく振る舞うことができるのは僥倖だった。
洞窟の入口は狭く感じられたものの、奥に進むにつれて天井の高さと道幅がだんだんと広がり、やがてミロとカノンが二人並んで歩いても、自由に手足を動かせるほどの開かれたスペースへとたどり着いた。目を凝らしてみれば、そこだけぽっかりと、岩でできたドーム状になっているのが確認できる。
「どうだ?」
「……まだわからん」
注意深く辺りを見まわしながら、ミロは岩肌へそっと手を伸ばし、硬度を確認した。冷たくて硬い感触は、洞窟というより鍾乳洞に近い。思った以上に広さがあり、適当な硬度を持っているようだが、こういった場所に長居しない方がいいのは、いつの時代もセオリーである。カノンの言うとおり、深追いしない方が身のためかも知れない。
しかしそこでミロは、左手奥へと続く通路の先に、小さなくぼみがあることに気がついた。目を凝らさないと見逃してしまいそうなほど小さなそれは、よく見ると、人一人が辛うじて通れそうな隙間に繋がっているようだ。
通路の先には何があるのだろうと、ミロは純粋に興味がわいた。首だけを伸ばして、隙間をのぞき込もうと身を乗り出す。
そこにいたのは、一匹のサソリだった。
守護星座に蠍座を持つミロにとっては、なじみ深い生き物でもある。
ただしそれが、見上げるほど巨大な大きさでなければ。
驚きで、声もなく後ずさりそうになったミロは、いつの間にかすぐ背後までカノンが来ていたことに気がつき、そこで踏みとどまった。
「微弱な小宇宙を感じる。こいつが元凶か」
「何?」
独白にも近いカノンのセリフだったが、ミロはもう一度目の前の巨大サソリを注視した。幸い向こうはまだこちらに気づいていない様子で、巨体にふさわしい凶悪な鋏と尻尾が、ときおり息づくように動いている。
「……よくわからんな。百歩譲って、小宇宙のようなもの、とオレは思う」
断定はできないと、ミロは首を横に振る。カノンが小宇宙だというそれは、意識を集中させてやっと『何かを感じられる』といった程度のものだ。小宇宙と呼ぶにはあまりにも弱い。そもそも、巨大とはいえ、サソリがヒトの体内エネルギーたる小宇宙を持つこと自体、想像の範囲を超えている。
「だが、今のところ唯一の手がかりだ」
カノンは引き下がらなかった。納得は行かないが、ミロもその考えには賛成だった。
「どうする?」
「生け捕りがベターだな。悪くて死骸を持ち帰る」
端的なカノンの応えに、ミロは小さくうなずいた。となると、カノンの技はほとんど期待できないといっていい。異次元送りはもっての他だし、こんなところでサソリもろとも爆発死もごめんだ。ヒト以外の生き物に幻朧拳がきくのどうかもわからない。
ミロは一歩前へと進み出た。
「どうするつもりだ」
「リストリクションで動きを封じて、スカーレットニードルを撃ち込んでやればいい」
暗闇の中でも、カノンが眉をひそめたのがわかった。
「待て。こんな狭い場所でやり合う気か」
「暴れる前に終わらせる」
ミロが短く告げた。サソリがこちらに気づいていない、今が好機なのだ。いちいち慎重になろうとするカノンの態度に、少しばかり苛立ってもいた。ミロは指先に小宇宙を集中させようと、意識を高める。
その刹那、洞窟内の風が薙いだ。
「右だ!」
カノンの鋭い声が飛んで、反射的に、ミロはそこから素早く飛びのいた。無理な体勢で跳躍したせいで、思いがけず岩陰に肩から突っ込んでしまい、ミロは受け身も取れず、したたかに背を打ち付けた。
間一髪、ミロが身を潜めていた辺りは、サソリの尾による一撃で、見事に一部が陥没していた。
「周りをよく見ろ。油断するな」
いつの間にか、双子座の黄金聖衣をまとったカノンが、ミロを背に庇うようにしてたたずんでいた。カノンの前で不覚を取ったのが悔しくて、ミロは小さく舌打ちし、眼前の敵をもう一度睨み据えた。
サソリは完全にミロとカノンの気配に気づいたようだ。巨大な尻尾を高く掲げ、完全に捕食者の体勢を取っている。
「聖衣をまとえ」
いちいち命令口調のカノンに、ミロは先ほどから苛立つ気持ちを抑えられなかった。そんなことはわかっている。けれどカノンに指摘されたからあわててそのとおりにしたと思われるのも癪だった。
「小宇宙も燃やせないような化け物相手にか」
「化け物相手だからこそだ」
せめてと思ったセリフさえも、さっそくカノンに言質を取られ、ミロは言葉を詰まらせる。悔しいが、カノンの方が冷静だった。またその言葉に納得できる程度には、ミロの頭ものぼせてはいなかった。
サソリの尻尾から紫色を帯びたガスが吐き出されるのを確認し、ミロは思わず口元を押さえた。酸っぱいような、それでいてどこか甘いような異臭が鼻をつく。洞窟に入った時から漂っていたのはこれだったのかと、ミロは今さらながらに気がついた。
「ここで戦うのは不利だな」
カノンがミロへ言い聞かせるように言った。狭い洞窟の中でむやみに暴れまわったりしたら、サソリもろともがれきの下だ。空気も少ないから、そのぶんガスも籠もりやすいだろう。いかに二人が黄金聖闘士としての戦闘能力に秀でていても、自由に動けず、必殺技が使えないのでは分が悪すぎる。
ミロとて、ここで敵と戦うことの無謀さが理解できないわけではもちろんない。ここはいったん洞窟の外までサソリをおびきだして、それから叩くのが一番の得策だ。口ではああ言ったものの、カノンの言わんとすることは、ミロにもよくわかっていた。
「オレがやる。下がっていろ」
カノンの肩を押しのけ、ミロはひょいと大サソリの前に躍り出た。
「ミロ!」
しばらくぶりに聞く、カノンがミロの名を呼ぶ声だった。こんな状況だというのに、その声音にどこか懐かしささえ感じる自分に、ミロは戸惑った。同時に、それがなぜ今なのかという気持ちが胸を去来する。
名を呼ばれたのが今このタイミングでさえなければ、なぜオレの眼を見ないと、カノンを追及できるような気がするのに。
この任務を終えたら、カノンはまた名前を呼ばなくなるのだろうか。
制止するカノンの声を無視して、ミロはひらりと素早くその巨大な甲殻の上に飛び乗ってみせる。サソリは巨体を大きく旋回させて、ミロめがけて巨大な尻尾を振りかざした。
軽やかに跳躍して、ミロは見事にサソリの一撃をかわして着地した。蠍座の黄金聖闘士らしく、サソリの動きは熟知している。
横目に映ったカノンの表情が、どこかほっとしたような顔をしていたので、この心配性めとミロは舌打ちしたい気分になった。カノンはまるでミロの失態を恐れているかのようで、だからこそ、ミロは逆に神経を研ぎ澄ますことができた。
続けてサソリの巨体を見上げ、次はどうやって注意を引きつけてやろうかと思案するミロに、カノンはなおも声をかける。
「挑発はそれくらいにしておけ」
「いいから貴様は先に外へ出ろ。オレがこいつを入口へ引っぱっていく」
保護者よろしく声をかけてくるカノンに、ミロはいささか辟易していた。慎重になるにも程がある。心配性をやめろとは言わないが、だからといって安易に守りの姿勢へ転じることを、ミロは是としない。そうでなければ聖域を、女神を守る黄金聖闘士である意味などないのだから。
それは長く培われた、ミロの戦い方における基本スタンスでもあった。
ミロの思惑を知ってか知らずか、カノンは一瞬ためらうようにした後、素早く身を翻した。その後ろ姿を確認して、ミロはもう一度サソリの側へと間合いを詰めた。サソリはふたたび大きく旋回すると、高く尻尾を振りかざし、鋭い針を突き立てた。軽い身のこなしでその一撃を避けたミロだったが、そこでサソリの異常に気がついて、とっさに空中で身体を逸らす。だが、一瞬だけ反応が遅れた。
あと少し遅れていたら、危うく心臓を一突きされるところだった。小さく息を呑んだのは、すんでのところでかわしたサソリの尻尾の先が、ミロの胸を小さく掠めたためだ。
じわりと青鼠色のニットに血が滲むが、かまっている余裕はなかった。十分に注意を引きつけたと確信して、ミロは急ぎ踵を返す。あとは入口へ向かって全力で駆け抜けるだけだ。
もう後ろは振り返らなかった。
高くそびえるサソリの巨大な尻尾は、驚くべきことに、『もう一本増えて』いた。うす暗い洞窟内でも、その不気味なシルエットは十分に確認できるが、洞窟の入口付近へ近づくにつれ、それははっきりとしたかたちで浮かび上がった。奇妙なことに、二本目の『尻尾』はサソリの頭部から生えていて、しかもその先端には、ご丁寧にてらてらとした毒が付着していた。戦いの最中に進化したとでもいうのだろうか。サソリの大きさからしてまず異形だが、いよいよ本当にこの世のものとは思えぬ生態だ。面倒なので、報告書はカノンに書かせようとミロは思う。
「まずいな」
舌打ちしようとして、上手くくちびるが動かせないことを、ミロは自覚した。したたりおちる汗の量が尋常でない。まぶたをつたって降りてきた汗が眼に入り、視界が霞んだ。悪寒が止まらないのに、身の内から焼き尽くすような熱が、全身を駆け巡っている。
並みの毒には耐性が出来ているはずのミロだったが、今回ばかりはただで済みそうもないと、頭のどこかが警鐘を告げていた。早く解毒しないと危ういかも知れない。
ミロは全身に小宇宙を集中させながら、手の甲で額から流れる汗をぬぐった。洞窟の入口はすぐそこだった。広い場所までおびき寄せればこちらのものだ。よしんば自分が仕留め損ねたとしても、カノンがいる。
ふらつきそうになる意識を無理矢理追い払い、ミロは身を低くして、全力で走った。
入口の手前にさしかかった辺りで、ミロは一度振り返った。全力疾走したはずなのに、サソリの巨体はすぐそこまで迫っていた。たいした距離を走った覚えはないのに、膝ががくがくと笑っている。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
サソリの尻尾が、ひときわ高く振り上げられる。サソリの頭部に出現したグロテスクな『尻尾』は、獲物を求めて大きく弧を描いていた。熱に浮かされているからか、汗で滲むせいなのか、霞む視界の端に、またあの紫色を帯びたガスが大量に噴き出しているのが見て取れた。その空気から逃れるように、ミロは勢いよく地面を蹴った。
苔むした大地の上に、勢いよくダイブする。土と草の匂いがミロの鼻を突いた。気味悪く感じていたはずの原生林や湿った空気が、これほどありがたいものだとは思わなかった。やっと外に出られたのだと確認して、ミロは僅かに安堵する。
だがこれで終わりではない。リストリクションで、サソリを生け捕りにしなければ。ミロは膝をついて立ち上がった。
けれど思うように力が入らない。
どくどくと耳にうるさく響くのはおのれの心臓の音か、それとも、地響きととも近づいてくる巨大サソリが揺るがす大地の音か。
このままでは危険だとわかっていても、ミロはそこから一歩も動けなかった。
熱い。胸の傷が疼く。傷痕をかきむしりたくなるような衝動に駆られて、ミロは胸元に爪を立てる。
はっとして顔を上げると、視界いっぱいにサソリの尻尾が迫っていた。
避けなければ。だが、体が思うように動かない――。
「アンタレスだ!」
アンタレス。サソリの心臓。
その声が聞こえたとたん、ミロの指先は、考えるより先に赤い光を閃かせていた。
反射的に身を翻し、ミロは指先に小宇宙を集中させた。一度に十五発。見慣れた蠍座の星の位置に、光速の早さで撃ち込んでやる。
大地を揺るがす耳障りな雄たけびが耳をつんざき、赤い閃光に貫かれたサソリの巨体がビクビクと痙攣した。ドウッという振動とともに、グロテスクな緑色の液体が流れはじめ、しばらくすると、サソリは完全に動かなくなった。
リストリクションを放つ余裕もなかった。生け捕ることはもう難しいかと、ミロは心中で女神に詫びる。
だが、ミロの身体もそこまでが限界だった。
安堵したのと同時、ミロはその場に力なくくずおれた。辺り一帯にただようガスは、サソリの尻尾から噴きだしたものだろう。これも毒かも知れないから、近寄らないよう、カノンに教えてやらないと――。
ミロが思案する間に、三角形の軌跡を描く超音波がサソリに向かって放たれる。ミロは眼を瞠った。カノンのゴールデントライアングルだ。
絶命した巨大サソリは、その軌跡に触れたとたん、霧散するように消滅した。ミロの耳元には、やけに慌ただしく駆け寄る黄金の靴音だけが、近く響く。
「……、生け捕りが、ダメなら」
うつぶせで転がったまま、息も絶え絶えに、ミロはつぶやいた。
「死骸を、持ち帰るのでは……なかったか」
胸の傷から広がる痺れと痛みは激しさを増すばかりだが、化け物の気配が完全に消え去ったのを確認して、とりあえず息をつく。サソリの消滅とともに、澱んでいた空気もいくらか薄れているようだった。
「……あんな毒素たっぷりの不潔な死骸を、女神のおわす聖域に持ち込めるか」
ミロの身体を仰向けに返して、胸元の赤黒い染みに目をとめたカノンが、表情を強張らせる。
何とか自力で立ち上がろうとして、上手くいかずに肩で苦しそうに息をするミロの身体を、カノンはいとも簡単に担ぎ上げ、そして足早に歩き出した。
「よくやった。あと少し我慢しろ」
貴様にそんな風に言われる筋合いはないと、抗議したい気持ちに駆られたが、それでも押し寄せてきた深い安堵感に、ミロは大人しく身を任せた。