真夏のエデン 1
毎日、うだるような暑さが続いていた。
乾燥した空気のおかげで、風さえあれば比較的過ごしやすいギリシャの夏だが、照りつける太陽の陽ざしは強く、過酷なほどに肌を焼く。
その昔、グラード財団所有のリゾート地として開拓されたものの、城戸光政の死後、手入れが行き届かなくなり無人と化した孤島がエーゲ海沖にある。
聖戦後、グラード財団総帥としてのつとめを徐々に再開させた城戸沙織の命により、青い海と白い砂浜が輝くその島へ、二人の黄金聖闘士が降り立った。
*
見上げた空には雲ひとつない。
青と白のコントラストが美しい、見渡す限りのパノラマには、寄せてはかえす渚の音と、海鳥の鳴き声ばかりが響いている。
そうして、浅瀬から深瀬にかけてだんだんと色濃くなっていくグラデーションを、何とはなしに眺めていたミロは、ふと修行地の情景を思い出していた。
黄金聖闘士としての資質を早くに見いだされ、幼くして聖域へと連れてこられたミロは、外界での生活というものをほとんど知らない。ただ唯一、修行地であるミロス島だけは例外だった。
青い空と碧の海に囲まれた、小さな漁村で構成されるあの島にも、美しい砂浜は幾つもあった。朝日が昇ってから夕陽が沈むまで、日がな一日修行に明け暮れていた日々が、今のミロには懐かしくもあり、その甲斐あって、こうして、大切な女神の勅命を賜ることができるのだという自負も感じられる。
「聖衣が燃えるぞ」
低い声と、白砂の上に鎮座している聖衣箱の輝きが、思い出にふけりそうになるミロの意識を現実に呼び戻した。見れば、すでに双子座の聖衣箱を担いだカノンが、先へと歩き出していた。
サガが新教皇の位に座してから、双子座の黄金聖衣はカノンの手にゆだねられた。元教皇であるシオンや、次期教皇候補であったアイオロスを差し置いて、あえてサガが新教皇に就任した意味はそこにあるのではないかと、ミロは推測する。
射手座の代わりは誰にも務まらないが、双子座に限っては例外である。双子座の兄が教皇として君臨することになれば、居着く先は当然教皇宮になる。兄と等しい素質をもつ弟が健在であるのに、双児宮を無人にしておく理由がない。
つまりサガは、双子座の黄金聖闘士として、カノンの居場所を聖域に確保するための大義名分を作り上げたのではないか。
そうでなければ、いくら女神やアイオロスの後押しがあったとはいえ、復活後、あれだけ自責の念にとらわれていたサガが、おいそれと教皇の座に納まるはずがない。
すべてはミロの憶測に過ぎないが、それは、表だって愛情を注ぐことができない不器用な兄から弟への、精一杯の愛情表現なのかも知れなかった。
その甲斐あってか、ここ最近では聖衣をまとうカノンの姿もすっかり板についてきた。もっとも、冥界では聖衣を返上するまで身にまとい、三巨頭を含む多くの敵を屠ってきたというのだから、着心地じたいは悪くないようだ。双子座の聖衣はカノンにとても馴染んでいるようだとミロは思う。今、黄金聖衣が共鳴を起こしたとして、その持ち主に選ばれ、呼ばれるのがカノンでも、ミロは決して驚かない。
「どうした?」
促しても反応を返さないミロへ、カノンがふたたび声をかける。何でもないと首をふり、ミロは青鼠色のタンクトップについた胸元のジッパーを、心持ち引き上げた。
この島へミロとカノンを運んだのは、言うまでもなく城戸邸御用達の自家用セスナだが、アテネ空港を経由してきたので、二人は一般人とそう変わらない出で立ちだった。
この炎天下なので、聖衣をまとうのは、せめて日陰に入ってからでもいいだろう。
蠍座のモチーフが描かれた聖衣箱を背負い、ミロは大人しくカノンのあとに続いて歩き出した。
まばゆく輝く白い砂浜を横切りながら、ミロは隣に並んで歩くカノンの横顔をそっと盗み見た。ときおり手の甲でひさしを作りながら、目の前に広がる白砂を見つめるカノンのまなざしは、一見していつもと変わりがない。
けれど今、カノンがどんな表情をしていようと気に入らない理由が、ミロにはあった。
カノンはもう、以前のようにミロを見ない。
ミロがそのことに気がついたのは、ここ数日だ。
これまで、どちらかというと不遜なまでの態度でミロに接してきた男が、どういうわけか近頃、様子がおかしい。
天蠍宮を訪れる回数が目に見えて減り、長居をすることもなくなった。日によっては、あいさつだけを交わして別れることもある。
会話の最中に、話が途切れることなどはしょっちゅうで、自分から振ってきたくせに、たった今話した話題の内容さえ忘れていることもままあった。上の空ともどこか違う、いっそ虚ろにも見えるその様子は、一瞬何かの病なのかと疑ったほどだ。
だからミロは一度、カノンに訊ねてみた。
調子が悪いのなら、聖域内に医療施設もある。女神が聖域に座してから、定期検診は半ば強制になっているし、健康管理も任務のうちだと、そう告げた。するとカノンは首をふり、健康に異常はないとはっきり言った。迷いのない口調だった。
確かに見る限り、顔色が悪いとか食欲がないとか、そういった様子ではなさそうなので、ミロはそれきりそのことについては口をつぐんだ。カノンの健康状態までとやかく口出しする権利は、ミロにもないのだ。それに本人がそう言うのなら何も問題はない。またそれ以上詮索する必要もない。
けれど気づいてしまった。
カノンは明らかに、ミロを避けている。正確には、ミロの眼を見ることを。
先日、ミロは予期せずしてカノンと食事をとる機会があった。教皇宮で、サガの書類の仕分けを手伝っていたところへ、報告書を届けに来たカノンと鉢合わせし、そのまま三人で夕食でもとサガが提案した。
書斎の扉を開けたとたん、表情を失ったカノンを、ミロが見逃すはずもない。一瞬だけミロに注がれた視線は、すぐに兄のサガへと移された。
だからミロは食事の最中に、向かいに座る双子を交互に眺めるふりをして、わざと探るようにカノンの眼をのぞき込んでやったのだ。それはわかりやすく、真っ直ぐに。
食事中の話題はとりとめのない世間話が主だったが、和やかに進んでいたように思われた会話が突如断たれ、カノンの周りの空気だけが不穏に揺れた。冷たいスープを口元へ運んでいたカノンは、雫がスプーンからこぼれ落ちるまで微動だにしなかった。もしや息でも止めているのかと、ミロは不審に思ったほどだ。
――カノン?
声をかけたのは、サガの方が先だった。その声音には心配そうな色が滲んでいて、カノンと同じ秀麗な美貌には、弟を憂える影があらわれていた。サガの前でカノンをけしかけたことを、ミロは少しだけ後悔した。
カノンは応えず、音もなくスプーンを食卓へ戻すと、ナプキンを軽くたたんで椅子の背もたれにかけた。急用を思い出したと、わざとらしい嘘をついて席を立つカノンへ、ミロは一瞬怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られた。
勝手気ままに人のペースを乱すくせ、自分がいざ踏み込まれれば逃げるのか。
こらえた理由には、サガが同席していたことももちろんある。けれどそれ以上に、なぜ自分がという思いが、ミロにはあった。
別にそれならそれで、かまわないのだ。
もともとカノンが一方的に押しかけてきていただけで、ミロの方は特別な思い入れも何もない。お友達ごっこにも飽きが来たというのなら、清々するとまでは言わないが、やっと以前のように静かな日々が天蠍宮へ戻ってくる。ただそれだけのことだ。日常の変化を好まないミロにとっては、ありがたい話のはずだった。
わからないのは、それでもカノンが、天蠍宮を訪れるのをやめないことだ。ミロの顔を見たくないのであれば、今のカノンの行動は明らかに矛盾している。腹の底が読めないところはあるが、少なくともミロが知る限り、カノンは、わかりやすく理にかなわないことはしない男だった。
その彼が、なぜ急にこんな不可解な行動を取りはじめたのか、ミロにはわからない。けれどそれを口に出して確かめるのも、なんとなく癪だった。
これまでさんざん、カノンをないがしろにしてきたのを、ミロ自身よく自覚している。そのことで、ついに嫌気が差したといわれればそうなのだろう。
けれど何となくそれも違う気がする。何かきっかけがあったのか。だとすればそれはいつなのか。
思うままカノンを問い詰めるのは、ミロにとって難しいことではない。けれど、それではまるでカノンとの時間を惜しんでいるとみずから主張しているような気がして、ミロにはそれも我慢ならなかった。
カノンの姿を見る機会が減って、違和感はあっても、それを物足りなく感じているかと問われれば、正直ミロにはわからない。ただ、カノンがあからさまに目を逸らした時、理不尽な怒りの炎が、ミロの胸の内に灯されたのだけは確かだった。
もともと気の長い性格ではないという自覚はあるが、ここまで感情の波が荒立ったのも久しぶりだ。ここ数日、ミロは苛立っていた。
しかしよくよく考えてみれば、カノンがどんな行動を取ろうとも、それが聖域やミロにとって災いするものでない限り、咎めだてする権利は誰にもない。
そうして何度自分を納得させようとかぶりを振ってみても、一度燻りはじめた炎はなかなか鎮火する気配を見せなかった。
時が経てば、やがてこの奇妙な関係を、何とも思わなくなる日が来るのだろうか。
考えても、答えは出なかった。
そんなわけで、結局、悶々とした日々を送りながら、今日この任務の日を迎えたミロである。
任務の目的は、孤島で感知された正体不明の小宇宙の原因を探ること。
原因がわからずとも、手がかりや何か気になる点があれば漏らさず報告を、という女神のお達しだ。
聖戦が終結した今、女神の聖闘士に牙向く輩がそう多くいるとも思えないが、女神からは「細心の注意を払い、必ず二人一組で任務に当たるように」と強く念押しされた。
任務を拝命する際、教皇の間にあらわれたもう一人の黄金聖闘士がカノンだったのにはミロも驚いたが、カノンの方も、まさか相方がミロだとは、夢にも思わなかったに違いない。
ぎくりとしたように、らしくなく頬を強張らせるカノンを、舌打ちしたい気分でミロは見やった。向こうから目を逸らされるより先に顔を背けてやったので、カノンがその後どんな顔をしていたのかを、ミロは知らない。知りたいとも思わなかった。
*
「何か感じるか?」
教皇の間でのできごとを回想していたミロへ、カノンが声をかけた。ミロは少し考えてから、ゆっくりと首を横に振る。
「いや。今のところは何も」
島に上陸した時から、その正体不明とやらの小宇宙の気配を手繰っていたミロだが、小宇宙どころか人の気配さえ感じられない。十数年にわたり無人だったという情報が事実ならばそれも当然だが、それでは女神の情報と食い違いが発生してしまう。小宇宙はヒトの体内エネルギーだ。ゆえに生命体なくして自然と発生するものではない。
「同感だ。だが、女神のお言葉に間違いがあるとも思えん。……奇妙な島だ」
最後のひと言はカノンの独白のようだが、その意見にはミロも賛成だった。
「いっそ二手に分かれるか」
突如として別行動を提案するカノンへ、ミロは思わず眉をひそめる。
「女神のお言葉を忘れたのか?」
「常に二人で行動するようにとは、オレは聞いてない」
揚げ足を取るようなカノンのセリフに、ミロの胸の内に燻る炎が、ちりりと音を立てた。言葉通りに受け取るならば、それはそうだろう。女神の意図を読み取れないはずはないだろうに、この期に及んで自分を避けようとするカノンへ、ミロは煩わしげな眼を向けた。そもそも、平素のミロならば、いちいちこんなところで突っかかったりはしない。
だが今だけは状況が違った。わかっていたこととはいえ、カノンは明らかにミロと二人きりになることを避けている。それがあまりにもあからさまなのが、ミロにはどうにも我慢ならなかった。任務の最中くらい、隠そうとする努力を見せろと言いたくなる。
けれどこんなことでカノンと口論を展開するわけにはいかなかった。任務のために与えられたのはたった三十六時間。明日の夕方には、財団のセスナが二人を迎えに来ることになっている。今余計な波風を立てて、任務に支障を来すことがあってはならないのだ。
「……ならば好きにしろ」
突き放すように言い放ち、ミロは並んで歩いていたカノンを足早に追い越した。これ以上カノンと話していると、要らぬ苛立ちばかりが胸を煽る。
「おい」
後ろから呼ぶ声が聞こえたが、それも今のミロにはかえって逆効果だった。
カノンはもう、ミロの名前を口にすることすらしない。
そのことがひどく気に障るのが、ミロは無性に悔しかった。
無人島の中心部には、緑の原生林が残っていた。リゾート開発された島だと女神は言っていたが、どちらかというと、開拓される直前に放置されたというのが正しいのかも知れない。錆びついて、使い物にならなくなった古い重機があちこちに放棄されているのがところどころに見られたが、森林伐採が行われた印象は受けなかった。
苔の生えた奇妙なかたちの樹木と、葉の細かい植物はどれも見たことがないくらい巨大に育っており、どことなく不気味な雰囲気を醸し出している。生い茂る木々のおかげで直射日光を浴びずにすむのはありがたいが、ミロは早々にこの原生林を抜け出したくなっていた。湿っぽい空気もどうも苦手だ。気温は高いはずなのに、どこか肌寒く感じる時があり、やはり何かがおかしい。
「こっちだ」
少し離れたところから、カノンの声がした。ああは言ったものの、結局カノンはミロのあとについてきた。苔で滑りやすくなっている足下に注意を払いながら、ミロは自分の身の丈ほどもある植物をかき分け、そこへ急ぎたどり着いた。
「洞窟か」
辺りを見渡しながら、ミロがつぶやいた。入口の大きさは、ミロやカノンがぎりぎり身をかがめずに入れる程度なので、二メートル弱といったところだろうか。暗い洞窟の奥からは、湿った冷たい空気が流れてきている。
「あまり奥へは行かない方がいい」
無言で洞窟の入口へ近づくミロへ、カノンが声をかけた。止めるつもりはないようだが、らしくなく、どこか緊張した面持ちをしている。
「何かあるかもしれない」
ミロは反駁した。今のところ、手がかりらしいものはなく、むしろこの洞窟に何もなければ、何の異変も見つけられずに終わる気がする。ミロの直感がそう告げていた。
「しかし」
「気が進まないのならそこで待っていろ。二人で行動するようにとは言われていないからな」
先ほどのカノンのセリフを盾に取り、ミロは素早く洞窟の入口へ足を向けた。カノンがむっとしたような表情になるのを横目で確認し、ミロは少しだけ愉快な気分になってくる。
カノンは気づいているだろうか。ここのところ、カノンは、以前には決して見せなかった姿をミロの前でさらしている。
今もそうだ。こんな風に、ミロのセリフ一つでむきになるカノンを見ることは、今までならば絶対になかった。
「来るのか、来ないのか?」
立ち尽くしたまま動こうとしないカノンへ、わざと高慢な物言いで告げてやると、その応えを待たずして、ミロはさっさと身軽な動作で洞窟の奥へと歩を進めていた。