プリズナー・オブ・ラブ
聖域。
青く澄み渡った空のもと、陽の光を受けとめ、威風堂々とたたずむ第八の宮は、カノンにとって、他のどの宮とも違った色彩を放っていた。白鼠色の、朽ちかけた石柱と古い石畳が続くばかりの彩色に乏しい聖域は、ともすれば色褪せたモノクロ写真のようにも映る。けれどその宮だけは、まるでそこだけ別のフレームで切り取ったかのように、鮮やかに色づいて見えた。
靴音を響かせて踏み込んだ神殿内は、いつも通り、静謐な空気で満たされていた。格子のない石窓からは、やわらかな光のカーテンがドレープを描いて差し込んでおり、乾いた石畳の上をきらきらと踊っている。手入れのあまり行き届いていない中庭からは、小鳥のさえずる声がした。ここは、神経質に刈り入れされた双児宮の庭よりも、よほど居心地がよさそうだ。
黄金聖闘士のなかでも、もっとも気性が激しいと評されるあるじを戴くこの宮が、実は一番の静けさに包まれていることを知る者はそう多くない。だが、それでいいとカノンは思っている。
その穏やかな様子に一瞬だけ目をすがめると、カノンは迷いのない足取りで、再奥に位置する宮のあるじの居室を目指した。
そうしてたどりついた、精巧な蠍の彫刻がなされた木造の古い扉の前で、カノンはぴたりと足を止めた。耳を澄ませてみるが、とうに侵入者の気配に気づいているであろう宮のあるじから、声がかかる様子はない。
冷たい石の床の上にどっかりと腰を下ろし、カノンは扉に背を寄りかからせた。扉の軋む音など気にもとめない。扉の向こうから、今日はどんな声がかかるのか楽しみで、それを聞くためならば、何時間だろうと居座れる気がした。
「入れ」
不意に内側へ引かれた扉のせいで、カノンは背から部屋の中へ倒れ込む羽目になった。派手に室内へ転がり込んできた不意の来訪者に、部屋の主はまったく動じる気配がない。しかし、今日こそはついに、彼の方から入るようにと誘いがあったのだ。カノンは心の中で快哉を叫び、呼びたくてたまらなかった、その名を呼んだ。
「ミロ」
天蠍宮を守護する黄金聖闘士――蠍座のミロは、分厚い本を片手に腕組みのまま、片方の眉だけを持ち上げて、床に転がるカノンを見下ろしていた。量の多い髪をハーフテイルに束ね、ニット地の薄いTシャツに黒いジーンズというラフな出で立ちだ。
非番の日を狙って正解だったと、カノンはこっそりほくそ笑む。常に尊大な態度を崩さないミロだが、こんなふうに年相応の格好をしていると、それさえもいっそ愛嬌のあるものに感じられた。いつもは豊かな髪に隠されている耳朶が、外気に晒されているのも新鮮だ。
何の用だ、とは、ミロはもう訊ねない。
霧雨のけぶる日には雨宿りだといって、月に風雲たなびく日には月見日和だといって。雷鳴がつんざく日には、眠れないのだという理由で。
カノンが天蠍宮を訪ねるのに、特別な事情は何一つとしてなく、ミロも今ではそのことをよく理解しているからだ。
くちびるを真一文字に引き結んだまま、ニコリともしない年下の同輩を、カノンは床に寝転がったまま観察する。腕組みに仁王立ちのミロが、カノンを歓迎していないことは明らかで、その心境を推し量るとすれば、あきらめ半分、呆れ半分といったところだろうか。もっとも、ミロがどう感じていようと、カノンは天蠍宮を訪ねる日課をやめるつもりはなかった。
ミロはしおり代わりに本に挟んでいた指先を引っ込めると、細くて短いため息を一つついた。薄いくちびるが、ほんの僅かすぼめられるそのさまに、カノンは目を奪われた。ミロの前では、まばたきの一つすら惜しい。
「起きろ。黄金聖闘士が、いつまでもそんな格好でいるな」
言いつつ、カノンに手を貸そうともしないミロは間違いなく不機嫌だが、引き合いに黄金の肩書きを持ち出すところが彼らしい。しかも相手は、よりにも寄ってカノンである。
ミロ以外の者が口にすれば、いっそ揶揄のようにも聞こえるセリフだが、そうではないことを、当のカノンこそが他の誰よりよく知っていた。
ゆるみきった頬をそのままに、腹筋に軽く力をこめると、カノンは勢いよく上体を起こしてみせる。
「……何がおかしい」
ミロからのこの問いがもう何度目になるのか、カノンは数えるのをやめた。不機嫌の種を蒔くのはいつもカノンで、気づかないふりをすることも可能だろうに、ミロはつど律儀にそれらを拾い上げた。
別にそれ自体はかまわないのだ。
カノンは、ミロにこうして叱られるのが嫌いではなかった。
不機嫌そうな顔でも、愛想笑いの一つも見せてくれなくていい。
誰よりも近くで、その姿を見ていられるのなら。
カノンは、天蠍宮のあるじが好きだった。
「差し入れだ」
カノンが持参した小ぶりのリンゴを一つ、ひょいと不意打ちで放り投げると、それを難なくキャッチしつつ、ミロがうんざりした声をあげた。
「またこれか」
ミロが指摘するとおり、カノンが天蠍宮へリンゴを持ち込むのはこれで二度目だ。ギリシャ語で、ミロといえばリンゴのことを指すが、カノンとしては別に、洒落や冗談のつもりはなかった。リンゴは、麓の村から是非にと請われ、サガが大量にもらい受けてきたうちのほんの一部である。ジャムにしたりサラダに入れたりと、少しずつ消化している最中だが、双児宮だけではとうてい捌ききることはできないので、他宮へ差し入れようとサガが提案した。だから差し入れ先は何も天蠍宮に限られたことではないのだが、カノンには、他に訪ねる相手など思い浮かばないから、自然と向かう先が限定されるだけの話だった。
「嫌いか?」
「……別に、嫌いではないが」
言いかけて、ミロがふと口をつぐむ。カノンはおやと目を細めた。
「が?」
カノンが促しても、ミロは黙ったままで、手のひらの上でリンゴをくるりと回転させた。そしてそのままリンゴに軽く歯をたてる。
カノンはミロの手からリンゴを奪いかえし、かわりにどこからか取り出したペティナイフの刃をそっとあてた。手のひらでリンゴをくるくると踊らせれば、あっという間に赤い螺旋階段を描いて、白い果実があらわになる。
「……器用なものだな」
「それはどうも」
素直に称賛の言葉を口にするミロがおかしくて、カノンは声に出して笑いそうになった。さっきまで不機嫌そうな顔しか見せなかったミロが、今は青い瞳を大きく瞬かせて、カノンのナイフ捌きに見入っている。自然と、刃を滑らせる手つきも得意げになった。
カシッという小気味良い音をたてて、手のひらの上でリンゴを八等分にしてみせたカノンは、そのうちのひとかけらをミロに差し出した。ミロは一瞬だけ逡巡したが、大人しく受け取ると、黙ってリンゴを口へ運んだ。
ミロは、歯並びもきれいだとカノンは思う。ミロがリンゴを咀嚼するさまを見るのは、だから飽きない。けれど、果汁で僅かに濡れて光るミロのくちびるは、彼に想いをよせる身にとっては、若干目の毒だった。
そのくちびるに、触れたいと願うようになったのがいつからなのか、もうカノンは覚えていない。はじめから、そういう意図があってミロに近づいたわけではなかった。
聖戦が終結したのち、神々の威光により、命を落としたすべての聖闘士が、ふたたびこの世によみがえった。それは冥界で翼竜とともに果てたカノンも例外ではなく、復活した聖闘士たちは、女神の慈悲深さとその圧倒的な神力に、ただ畏敬の念を抱くばかりだった。
だが復活は、カノンが望んだものではなかった。
聖戦では、すべての力を出し切って、納得のいく戦いができたとカノンは思っている。生きながらえることなど、よもや想像もしていなかったから、双児宮で目覚めた時は、正直複雑な気持ちだった。
三巨頭を屠り、青銅聖闘士らを導く一端を担ったからといって、大罪人であるおのれの烙印が消えるはずもない。もとより、そんなつもりで戦いに臨んだわけでもない。
それは、自ら命を絶つという、カノンとはまったく逆の選択肢を選んだ双子の兄とて、同じ心境だったに違いない。その証拠に、よみがえってはじめて顔を合わせた時のサガの表情は、まるで鏡を見ているようだったと、カノンは思う。
目覚めたはいいが、さて、これからどうする。
カノンは一考した。
よみがえった聖闘士のなかには、当然、元教皇シオンや天秤座の童虎、射手座のアイオロスも含まれていて、聖域におけるサガの心中が、カノン以上に複雑なのは見て取れた。
しかし、兄は自分とは違う。彼には黄金聖衣と、双児宮がある。
カノン自身、女神への忠誠心はすでに揺るぎのないものになっていたし、これから先も尽くすべきという気持ちは無論あった。だが、守護する宮を持たない自分の居場所は、少なくとも聖域ではないように思えた。何より、この先聖域にとどまったとして、どのように振舞えばいいのか、カノンには想像もつかなかった。
卑屈になっているのではない。ましてや慚愧の念からでもない。今後の身の振り方について、現実的な手段を考えなければならないのだ。
――カノン。
そんなふうに算段している最中、背後から、落ち着いたハイバリトンに名を呼ばれた時、カノンの心臓は大いに跳ねた。聞き違えようはずもないその声は、紛れもなく、あの聖戦の夜、カノンを奮い立たせた男のものだった。
――何をぼさっと突っ立っている。目覚めた黄金には、教皇宮への召集がかかっているのだぞ。
互いに顔を合わせるのは、女神神殿でのあの邂逅以来だったが、何のあいさつもてらいもなく、ミロは淡々と言葉を継いだ。
――聖衣がない。
教皇宮へ出向する際は、原則として聖衣着用だ。一度として召集されたことのないカノンだが、それくらいは知っている。
思いついたままを口にすると、ミロからは、貴様は阿呆か、という返事が返ってきた。
――オレに二度、同じことを言わせる気か?
その言葉の意味を理解するのに、さして時間はかからなかった。
黄金聖衣をまとっていなくとも。
守護する宮を持たずとも。
あの夜、確かにミロはカノンを黄金聖闘士と認め、同志と呼んだ。
居場所がないなどと考えるべきではなかった。最初から、迷う必要もなかった。
凛として誇り高く、自信に満ちあふれたミロの言葉は、あの夜と同じように、カノンを光差す道へと導いてくれる。
――行くぞ。これ以上、女神をお待たせするな。
ミロは、やや煤けた外套を翻し、音もなく踵を返した。逆光で、シルエットのように浮かびあがった蠍座の黄金聖衣は、肩のパーツが盛大に破損していて、よく目をこらせば、腹部にも細かな亀裂が多数見受けられた。
思えば、ミロもあの時、目覚めたばかりだったのかも知れない。彼の守護する宮から考えても、双児宮は教皇宮への通り道ですらない。だとすれば、ミロははじめからカノンを探して、双児宮へ降りてきたのではないか。
その真意を、カノンは確かめたことがない。だがあの時、ミロに声をかけられなかったら、聖域から姿をくらませていたであろうことは明白だった。
いつの間にか、白い器を用意して持参したミロが、卓上にそれをコトリと置いて寄越してきたので、カノンは切り分けたリンゴをすべて器に盛りつけた。器が素早くミロの方へ引き寄せられ、白い果実は次々とその胃袋の餌食になっていく。シャクシャクと小気味よい音をたてるミロの歯並びを見やりながら、カノンはふと、気になったことを口にした。
「そういえば」
「……。何だ」
咀嚼しつつも、ミロが話し出すタイミングは、口の中からものがなくなってからだ。粗野に見えて、意外と行儀や礼儀といったものにうるさいミロらしいと、カノンは思う。
「双児宮で目覚めた時のことを思い出していたんだが」
ペティナイフの刃をしまいつつ、カノンはちらりとミロの表情を盗み見た。今やミロはリンゴを食すことに夢中のようで、カノンには見向きもしない。だが一瞬だけ、その青い瞳が、カノンの視線と交わった。だからカノンは続けることにした。
「あの時、なぜオレがサガでないとわかった」
カノンの存在を知らない者が、カノンの姿を見て、サガだと思い込むのは当然だ。現に、聖域で過ごした十五年間、誰にも存在を悟られずにいたのは、そのおかげでもある。
だが、ミロは違う。ミロは双児宮で相対した双子の片割れを、カノンと断定してその名を呼んだ。迷いもためらいもなく、まるで当然と言わんばかりに。
黙々とリンゴを咀嚼するミロからは、リンゴの甘酸っぱい香りがただよっていて、カノンは無意識に鼻を鳴らした。ミロが口を開くたび、きれいな白い歯と、健康的な赤い舌がちらりとのぞき見えて、目のやり場に困る。けれどミロから目を逸らすことだけは、どうやってもできそうになかった。
「聞きたいか?」
「……是非とも」
もったいぶるようなミロの問いに、カノンは素直にうなずいた。リンゴを頬張るミロの手が一瞬止まる。同じタイミングで、ミロはいったん言葉を切った。
「おまえとサガは、」
「まったく似ていない。少なくとも、オレにとっては別人だ」
泰然として言い放ち、そして何ごともなかったかのように、ミロはふたたびリンゴへ手を伸ばした。リンゴは瞬く間にミロの口内へ消えていき、あたりにはさわやかな芳香だけが残った。
そんなはずはないのだ。
姿形ばかりか、小宇宙も気配までも、瓜二つの双子の兄弟であるサガとカノンが、似ていないわけがない。次期教皇とうたわれたアイオロス、教皇シオンでさえも、カノンの存在に気がつかなかったのは、だからこそであるというのに。
「……そんなことを言われたのは、初めてだ」
「そうか」
ミロは眉一つ動かさず、また、にべもない。まるで、おのれの言っていることに間違いなどあろうはずもないとでもいうように。
その指先を見つめながら、カノンはああ、と得心がいった。
ミロなら、そう言ってくれるのではないかという期待がどこかにあった。その言葉が聞きたくて訊ねたのだ。自分は。
ミロのその自信が、揺るぎない信念が、うらやましかった。
いつでも真っ直ぐで、迷いのないその姿は、この世の何よりもまばゆく、光り輝いて見える。
あの夜もそうだった。聖域で何よりも尊ぶべき女神の言葉を退け、ミロはカノンを敵として見定めた。だがそれでよかった。大手を振って同志よと迎えられるより、よほどいい。不敬を買ってでも、あの夜、深紅の傷痕を撃ち込んでくれたミロに、カノンは今も深く感謝の念を抱いている。
あの夜カノンに必要だったのは、ミロ以外にはあり得ないのだ。
サガの影として生き続けてきたカノンは、今さら、光になりたいとは思わない。けれど、ミロという光が映しだす世界は見てみたいと思う。
女神、聖域、十二宮。
空や海や大地、芽吹く草木や瞬く星々は、ミロの光を受けて、どのように輝くのだろう。
そして、その光は今、カノン自身をも照らしはじめている。
ミロが好きだ。
自分とはまったく正反対の、常に輝かしいばかりの道を、堂々と闊歩してきたであろう、この誇り高くうつくしい、黄金聖闘士が。
聖戦の夜、ほんの僅かな邂逅の間、十五発の光で進むべき道を照らしてくれた、厳しくも優しい、この男が。
だから――――。
あっというまに残り一つきりになったリンゴへ伸びたミロの手首を、カノンの手が音もなく捕らえた。ミロは弾かれたように顔を上げ、怪訝そうな眼でカノンを見やる。
その表情に、僅かばかりの警戒心が滲んでいることに、気づかなかったわけではない。けれど今のカノンには、行為に対する言い訳よりも、ミロに触れていたいと願う気持ちの方が勝った。
はじめは確かに、ミロの側にいて、その存在を感じていられるだけで良かったのだ。
ミロが怒りを感じるものや、心寄せるものを知りたかった。
ミロの瞳に映る景色を、隣で見ていたかった。
だが、その感情の向かう先がどこに終着するかなど、考えもしなかったのだ。
今の今まで。
今だとけしかける自分と、やめろと警鐘を鳴らす自分、どちらの声を優先させるべきか。
そのどちらも選べず、押し黙るカノンへ、ミロは、ただじっと静かな眼を向けた。
「……いきなり」
強い力で手首をとられたことに対し、何ごとか抗議の声をあげようとしたらしいミロは、そこでふつと言葉を途絶えさせる。
器に残されたリンゴはあと一つ。そのせいで、カノンに阻止されたと思ったようだ。
「ああ、残りはやる。美味かった」
他人の情緒に聡いくせ、時として、ミロのこういう見当違いな鈍さを、カノンは今恨めしいと思う。だが今、言えるはずもない。この気持ちだけは。
捕らえられた手をふりほどくこともせずに、ミロはカノンのくちびるへリンゴを押しつけた。その指先がほんの僅か、カノンの上唇に触れる。
このまま指先に噛みついたらミロはどんな顔をするだろうか。
だがそうすることはせず、大人しくリンゴを口にくわえると、カノンは、名残惜しげにミロの手首を解放した。
「……カノン?」
名を呼ばれると、触れたい衝動がひときわ強くなる。
髪先くらいならば、警戒される前に触れることができやしないかと、この期に及んで、どうにかしてミロに触れたいと願う自分が滑稽で、カノンは笑い出しそうになった。
ミロに劣情を抱いている以上、どこに触れようと同じことだ。触れたが最後、それ以上、踏み込まずにいられる自信はない。
ミロは、嫌悪で顔をゆがめるだろうか。
それとも、烈火のごとく怒り狂うだろうか。
あるいはその両方か。
いずれにせよ、ミロは二度とカノンを側に寄せつけはしないだろう。
けれど、そんなミロの反応さえも眼にしてみたいと願う自分がいることに、カノンは気づいていた。
「どうした? ――おい」
自惚れではなく、ミロの声音にはカノンを案じる響きが含まれていて、カノンははじめて、ミロに対して軽い苛立ちを覚えた。
天蠍宮を訪ねれば嫌そうな顔をするくせ、無関心に徹することができないミロは、ある意味残酷だと思う。どうでもいい相手ならば、はじめから扉など開放せず、放っておけばいいものを。
一口だけかじった食べかけのリンゴを、カノンはそっと器に戻す。それから静かに踵を返すと、精一杯の冷静さを装って、今日の別れを告げた。
「邪魔をした。今日は帰る」
「……ああ」
不可解な面持ちで首を傾げるミロを残し、言った通り、カノンは足早に宮をあとにした。別れ際にミロの顔を見ないことなど、初めてだった。
どんなミロの姿でも見ていたいと思ったのに、今は、正面切ってその顔を直視することが、どうしてもできない。
天蠍宮は、訪れた時と同じ、心地よい静けさを保っていたが、今はその穏やかさが、かえってカノンのささくれだった心を刺激する。
宮を出て、ミロの守護する範囲外に出ると、それまで力強く響いていたカノンの靴音が、とたんに力無いものへと変化した。
ミロの前では、自分の心さえままならない。
それがどうにも楽しくて、心弾んでいた時期は終わりを告げていたのだ。
一度熱を孕み、ふくれあがった感情は、もう、どうやっても収まりがつきそうにない。
ミロが欲しい。
ミロの濡れたくちびる。こぼれる金髪。海の色の瞳。指先。
そのくちびるに触れてみたい。歯列をなぞって、舌の熱さを感じたい。
髪の柔らかさを知りたい。肌の熱を確かめたい。
強い光を宿すブルー・サファイアの瞳が、別の色で染まるのを見てみたい。
何度でも。
「……嫌いではない、か」
リンゴにむけられたセリフの先を、そう言えば聞きそびれた。
いつの間にか、石畳の上に長い影を落とす自分自身の影を見つめながら、カノンは、深くて長いため息を一つ、ついた。