ザ・ポーカーフェイス


 ウトウトと浅いまどろみの海を漂っていたところ、低い声に名を呼ばれ、ミロはふと重いまぶたを持ち上げた。視界いっぱいに迫った嫌みなほど端正な顔立ちに驚いて、寝転がっていた愛用の長ソファからとっさに身を起こす。飛び退いた勢いで預けていた背を滑らせてしまい、危うく床の上に落下しそうになるが、タイミング良く伸びてきた腕に、すんでのところで抱きとめられた。
 すげなくその手を振り払い、ふたたびソファの上へ横になると、ミロは行儀悪く脚を投げ出したまま腕組みになった。わざと乱暴に足を組みかえたはずみで、ソファが小さく悲鳴を上げる。
「勝手にここへ入っていいと、誰が言った」
「誰も」
 部屋のあるじに咎められているのは明白なのに、侵入者は、ほんの僅かさえひるむ気配もない。悪びれるどころか、完全に開き直ったその応えは、昼寝を邪魔されて虫の居所が悪いミロの機嫌をさらに急降下させた。だがそもそも、侵入者の気配に気づけなかったのはおのれの不覚。気配を断つのは相手の得手だとわかっているが、これ以上つつくのはかえってやぶへびかと、ミロは喉元まで出かかった文句を飲みこんだ。
 十二宮神殿内に併設されている黄金聖闘士の各居住スペースは、基本的に誰もが出入り自由だ。一応施錠できる仕組みにはなっているが、黄金聖闘士の特性上、その意味も必要もあまりない。他の黄金がどのように利用しているのかは知らないが、少なくともミロは、居住スペースを与えられてから一度も部屋に鍵をかけたことはなかった。もとより、覗かれて困るものや盗られて惜しむものもそうそうない。
 ミロが寝そべるソファの傍らに膝をつき、その悪態を見下ろして、侵入者――カノンは口元に薄い笑みを浮かべた。手にしているのは真新しいトランプケースのようで、ミロの頭上で見せびらかすように振ってみせる。
「……毎日毎日、暇で結構なことだ」
「おかげさまで。日々充実している」
 カノンに嫌みの類が通用しないのは、ミロの方も、ここのところのつきあいでだいたい把握している。それでも、この不毛な応酬がやめられないのがどうしてなのか、ミロにはわからない。考えてもわからないことを延々と思い悩むのは苦手だ。だからミロは、目の前にいる男の容貌を、黙って見上げてみることにした。
 聖戦後、女神の威光により復活を遂げた聖闘士の中で、カノンの存在は異端中の異端だ。海皇をたぶらかし、おのれの欲望のためだけに世界中の罪のない人々の命を奪った大罪人が、いつの間にか地上の平和を守る女神の聖闘士に転身しているのだから、いまだ信じがたいと勘繰る輩も多い。カノンの陰口や口さがないうわさ話が、今も聖域で絶えないのを、ミロは知っている。
 また生前、カノンと最初で最後に相まみえた女神神殿でのいきさつは、ミロの記憶にも新しい。地に這いつくばってでも、女神に仇なす輩を一人でも多く葬ろうと、甘んじてスカーレットニードルを受けるその姿は、義憤に駆られたミロの心に一石を投じた。このまま、この男を死なせるべきか否か。迷いは一瞬で、決断は、ミロがカノンの真央点を突くことで下された。
 ミロ自身、はじめから断罪や救済のつもりでスカーレットニードルを放ったわけではない。だがカノンはそのことに妙な恩義を感じているらしく、復活後、やたらとミロのまわりをうろつくようになった。教皇宮へ向かう道すがら、通過する天蠍宮にさしかかると必ずミロの顔を見に来るし、任務のない日は食事へ誘いに来たり、酒を飲もうと双児宮へ呼ばれることもある。
 目的があるならまだしも、最近ではそれらしい用事もないのに、カノンはたびたび天蠍宮を訪れることが多くなった。雨が降っているから何をしているのか気になってとか、天蠍宮の食料が底をついていないかだとか、それは用事と呼ぶにはあまりにもとりとめがなく、ミロからしてみれば余計な世話以外の何ものでもないのだが、機嫌伺いのような理由をつけるくせ、媚びへつらうでもなく、飄々としたカノンの態度はどこか憎めず、来るなと無碍にはできないまま現在に至る。
 そんなわけで、改心した双子座の弟が、聖戦での一件が元で、どうやらミロに懐いているらしいというのは、もはや聖域では周知の事実であった。双児宮に隣接する巨蟹宮のあるじ、デスマスクなどは、そのことを面白おかしく吹聴してまわっているし、先日は、双子の兄であるサガが「不逞の弟が世話になってすまない」と涙をこぼし、天蠍宮に大量のオリーブを置いていった(いったいこれをどうしろというのか)。水瓶座のカミュまでが、「おまえは弟子を取らなかったし、ちょうどいいではないか」などと言い出す始末である(ミロはカノンの師になった覚えはないし、やはりカミュはどこかずれている)。
 ミロとて、カノンとまともに言葉を交わしたのはあの夜たった一度きりで、カノンと親しい間柄では決してない。だが本人曰く、「他に知り合いもいないしな」ということらしい。カノンの言うことはわからなくもないし、実のところ、親しみを抱かれるのにも悪い気はしない。けれど、勝手に守護宮の私的なスペースへ足を踏み入れられるまでに至っては、さすがにいい顔はできないというのが、ミロの正直な感想だった。
「昼寝中だ。遊びたいなら他でしろ」
「どうせ暇なら付き合ってくれてもいいだろう」
「……。オレの言葉が通じていないのか?」
 露骨に嫌な顔をしてみせても、当のカノンはどこ吹く風で、トランプケースからカードを取り出した。かみ合わない会話は、カノンが意図的にそう仕向けているのだとわかる。こういった他愛のない話をする時、いつもカノンはどこか悪戯めいた話題運びを好んだ。
 直情型だの激情家だの、まわりは好きなようにミロを評価するが、それはあながち間違いではないことを、ミロ自身もよくわかっている。もともと、幼い頃から感情を隠すことは不得手だし、またそうする必要もあまり感じなかったというのがその理由だが、最近は、カノンのせいで特にその兆候が際だっていた。つまり、カノンはミロの感情の起伏を刺激して、面白がっている節がある。昼寝の邪魔をされるのは今回が初めてではないし、先日は、朝から土砂降りの雨の中、濡れ鼠のカノンが、タオルを借りたいと言って天蠍宮を訪れた。呆れたミロが、雨よけくらいしろと諫めたら、カノンは平然としてこう言った。
『そんなことをしたら、ここに来てタオルを借りる理由がなくなるだろう』
 一瞬、カノンが何を言っているのか理解できず、ミロは二の句も継げなかった。濡れた身体のまま神殿内をうろつかれるのも迷惑なので、ミロは仕方なくカノンの顔にタオルを叩きつけ、用がないなら去れと冷たく言い放ってやったのだが、カノンはたいしてこたえた様子もなく、では次はこれを返しに来る理由ができたと、けろりとした表情で告げた。いったい何をしに来たのかと怪訝な表情を隠さないミロに、おまえの顔を見に来ただけだと言って、ミロより八つも年上の男は、まるで少年のように屈託のない笑顔を見せた。
 カノンのそんな調子に合わせ、ミロの方も自然とぞんざいな振る舞いになった。カノンはそんなミロとの会話を楽しんでもいるようで、二人の会話はいつもテンポ良く弾んだ。
「昼寝などいつでもできるだろう。いいからそこに座れ」
「断る」
 尊大な口調で告げるカノンへ、負けじとミロが即答する。
「では、そのままでかまわない」
 この妙な引きの良さも、カノン独特のものだ。すげなく誘いを断っても、めげる様子は一切なく、別の方向からアプローチしてきたりする。先日は、そういえばビリヤードに誘われたのだった。気分じゃないと断ったら、では読書でもと、ミロの部屋の本棚を好き勝手に漁り始めたので驚いた。なぜそうなると文句をつけたら、カノンは、これまた勝手に天蠍宮のシンクを占領し、そしてしばらくすると、青くさわやかな香気を連れてミロのもとへと戻ってきた。無言で差し出されたティーカップには、琥珀色の液体がなみなみと注がれており、仕方なく啜ってみると、紅茶は素晴らしくミロ好みの味わいだった。神殿付きの女官が淹れたものよりはるかに美味い。ふと顔を上げてみれば、香る湯気の向こうで満足そうな笑みを浮かべるカノンと目が合って、ミロは何となく言葉を失ってしまったのだった。
「ミロ」
 ふいに名を呼ばれ、ミロはぱちぱちとまばたきを繰り返した。
「何を考えてる?」
「……別に」
 気のないそぶりで返しても、カノンはそうかとあっさり引き下がるだけだ。何度冷たくあしらっても、カノンが不機嫌そうになるところを、ミロはいまだ見たことがない。漠然とその表情に見入ったミロは、先ほどとは違った意味で、カノンの顔を凝視した。
 双子座の黄金聖闘士は、いつ見ても迫力のある容貌だ。彫りの深いはっきりした目鼻立ちと、整った凛々しい眉に、女もうらやむような長いまつげが、深い碧の瞳をきらきらと縁取っている。背に流れる癖の少ない長い髪はさらりとしてツヤがあり、触れたらさぞかしやわらかそうだ。こんなところで遊んでいる暇があるのなら、市街に降りてそれらしい場所へ出れば、相手など引く手あまただろうに、何が悲しくて、昼間から男二人でカード・ゲームか。カノンの顔を見つめるたび、ミロはいつも同じ感想を抱くのだが、それを言葉にしたことはない。カノンがこの状況を楽しんでいるのは明らかで、愚問だと言われれば、それ以上の会話が成立しないことは目に見えていたからだ。
 カノンは手にしたトランプの束を整えると、慣れた手つきでカードを切り始める。その手中でカードが踊るさまを、ミロはただじっと見つめていた。カノンは、手のひらも大きければ、指も長い。
「先に選ばせてやる」
 カードを切り終えたカノンが、ミロに向かって、カードを裏向きにして広げて見せた。扇状になったそれらを鼻先に突きつけられて落ち着かず、ミロは言われるまま適当に一枚を選んだ。クラブの六だった。続いて、カノンが迷わず一枚を引き抜いた。
「ハートのジャック。……オレが後攻だ」
 ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべるカノンに妙な闘争心を刺激され、ミロはソファから勢いよく身体を起こす。ミロの隣にできたスペースへ素早く身体を滑り込ませると、カノンは、ソファの背にゆったりと身体を預け、長い脚を組んで座り直した。

「フラッシュ」
「……ワンペアだ」
 大の男二人が差し向かいで身体を預けても、天蠍宮のあるじ愛用の長ソファはびくともせず、勝負の行方を見守っている。ただし、さすがに少し手狭そうではあった。
 引き寄せたサイドテーブルの上に、積み札と疑似チップ代わりのコインを置き、ゲームは淡々とすすめられた。一度目の勝利の軍配はカノンにあがり、二度目はミロがストレートで勝利を収めた。三度目は、ダイヤのツーペアとハートのツーペアで、スートが強いカノンの勝ち。コインはどちらかが目に見えて増えるでもなく、また、減るでもない。
 のらりくらりと、いまいち熱の入らないおざなりな攻防が続き、はじめは勝つ気で挑んでいたミロだったが、やがて、どうでもいいとまではいかずとも、それに近い怠惰な気持ちが芽生えてきていた。それでもあくびをかみ殺したのは、仮にも勝負事の最中に不謹慎かと、身体が勝手に反応したためである。
 気がつけば、窓の格子の外から降りそそぐ日の光が、いつの間にか朱色を帯びていて、部屋の中に長い影を作っていた。

 もう何度目になるかわからない周回は、フォアカードでミロの勝ちだった。フルハウスをそろえてもなお負けたことをどう感じているのか、カノンは笑みを絶やさず、その意図がどこにあるのか、ミロにはわからないままだ。責任転嫁するわけではないが、カノンのそんな態度も、眠気を誘う原因なのだとミロは思う。
「……飽きた」
 カードの山を乱暴に崩し、ミロは片膝を抱いてソファに座り直した。深く身体を預けることに失敗して、ずるりと背もたれから滑り落ちそうになる。
「もう気がすんだだろう。オレは眠い」
 勝手を言っているとは、ミロは思わなかった。睡魔に襲われかけているのは事実だし、突発にしてはよく付き合ってやった方だ。わざわざトランプを持参してやってきたカノンへの、義理のような気持ちも少しあった。
 カノンは黙って肩をすくめ、崩されたカードを集めて一度シャッフルしたあと、きれいに整えたそれらを、ふたたび鮮やかな手つきで切り始めた。
「退屈か」
「退屈だ」
 昼寝をしていた方がましかもしれん、と今度は遠慮なくあくびを晒して、ミロが言った。カノンは特に気を悪くした様子もなく、そうかと笑ってカードを切り続けた。
 それにしてもプロ顔負けのカード捌きだ。カノンは、カードを幾つかの束に分けて複雑に入れ替えていったりと、いつの間にか手品師のようにダイナミックなシャッフル方法まで披露して見せる。思わずその手つきに見入っていたら、その笑みが深くなったような気がして、ミロはあからさまにカノンから目を背けた。
「オレは楽しい」
「……そうか」
 適当に相づちをうった。口先だけでも嫌みでもなく、カノンは本当に楽しそうだ。カードを切るリズミカルな音が、そのことを暗に告げてもいる。
「報告書に使う羊皮紙がなくなったんだが、どこで貰えるだろうか」
 唐突に、カノンが告げた。ミロは首を傾げつつ、律儀に応える。
「教皇宮の文官が支給しているだろう。今までどうしていた?」
「サガのを拝借」
 そういえば先日、最近支給された羊皮紙の数が合わないことがあると、サガがこぼしていたのをミロは思い出した。
「拝借という言葉の意味を知っているか?」
「何だ、ばれていたのか」
 カノンが悪戯っぽい笑みを浮かべたので、半ば予想していた答えではあったが、ミロは呆れてため息をついた。手癖が悪いところは、黄金聖闘士としていかがなものかと思うのだが、被害に遭っているのは実兄だけのようだし、さすがにそんなことまでいちいち指導してやる義理はミロにもない。
「そのサガに聞けば、すぐわかるだろうに」
「今思いついたんだから仕方ないだろう」
 ああ言えばこう言う。次から次へ、すらすらとセリフを乗せるカノンの舌先に、ミロはとうてい勝てる気がしない。
「だから二枚ほど用立ててくれないか。今度礼に食事でも奢ろう」
「……」
「もしや切らしているとか」
「そんなわけがあるか」
 思わずむきになり、言い返してしまってから、ミロはしまったと我に返った。
「では二枚。リクエストは好きなように」
 店は適当にこちらで選ぶと言って、カノンはまたあの屈託のない笑顔を見せた。
 こんな調子で、聖域内の規律の話や任務のこと、他宮の黄金の人となりがどうだとか、好きな酒の銘柄はどれそれで、次の非番はいつだとか――そういった他愛のない話を、カノンはうまくミロから引き出した。ミロは決して饒舌な方ではないが、訊ねられるまま口を開けば、意外と話題は尽きなくて、時が経つのを忘れることもままあった。それはつまりカノンが、ミロを退屈させないだけの話術を心得ているという証拠に他ならない。手癖は悪いが、頭の悪い男ではないのだと、ミロにもわかる。
 そのカノンが言うのなら、確かに、あの聖戦の夜、彼を救ったのはミロなのだろう。だがミロにとってあの夜が特別だったかと問われれば、そうではない。ミロは心のおもむくままカノンと対峙し、そして、おのれの信念に従い行動した。それだけだ。感謝をするなというのは傲慢かも知れないが、そのことで、カノンが特別恩に着ることはなくてもいいと、ミロは思うのだ。
「……オレには、よくわからん」
 何が、とはあえて言わなかった。わからないことといえば、すべてだ。カノンがしつこくミロを誘う理由も、足繁くこの天蠍宮へ通ってくる意味も。思わせぶりな笑みを浮かべているかと思えば、ふとした瞬間に、まるで邪鬼のない笑顔を向けてくる、その意図も。ミロにわかっていることは、何一つとしてない。
「ミロ」
 ひどく近いところで、カノンの声がした。はっとして目を上げると、鼻先が触れるほど近くにカノンの整った容貌があって、ミロは思わず息を呑んだ。カノンが動いたことにさえ、まったく気がつかなかった。
「賭けをしないか」
 カノンのくちびるが震えたかと思えば、ついて出たセリフの物騒さに、ミロは頬を軽く叩かれたような心地がした。
「賭け?」
 身体を離そうとして、背がソファの肘掛けに行き当たる。カノンは身を乗り出して、離れた分だけその距離を詰めた。二人分の重みで、ソファがギシリと音をたてた。
「……あいにくオレには、賭ける物などない」
 カノンの提案を、ミロは即座に却下した。けれどカノンに退く様子はない。深い色の碧眼が、今はミロだけを映して静かに輝いている。
「あるだろう」
「ない。だいたい賭博など」
 御法度だろうが、と言いかけたミロのセリフを、カノンの低い声がさえぎった。
「ある。たとえば――おまえ自身とか」
 カノンは、もう笑っていなかった。
 カノンの言うところが何を意味するのかわからず、ミロは不快に眉をしかめた。けれど、黙っていては怖じ気づいたのかと思われるような気がして、ミロはとっさに言葉を継いだ。
「オレの命が欲しいのか?」
 大真面目なミロのセリフに、カノンがぷっと噴きだした。声をあげて笑うカノンなど、滅多に見られるものではない。だが、ミロにとってはひどく心外だった。おかげで狭まっていたカノンとの距離を置くことには成功したが、あまりにも盛大に笑われると、当然いい気はしない。ただ、よほど見当違いなことを言ったらしいというのだけは、ミロにもわかった。
 カノンはなおも笑い続けており、その目尻にはうっすらと涙さえ浮かんでいて、ミロはそろそろ本気で怒りが湧いてきた。
「……笑いすぎだ」
「悪かった。何も命を取ろうというわけではない。聖闘士どうしの私闘こそ、御法度だろう」
 カノンがあっさり謝罪するので、ミロもそれ以上責め立てることはできなくなってしまう。しかも、カノンにしては案外まともなことを言う。ミロは一瞬だけ感心した。けれど――。
「だが、そうだな。それに近いものを要求してもいいだろうか」
 命に近いもの。あれだけ笑い転げておいて、今さらやはりそれと同価値のあるものが欲しいと、カノンは言う。
 ミロは即答できなかった。それがいったい何を指すのか訊ねるのは、勝負に敗北することを恐れているようで癪だし、断ったとしても同じことだろう。
「……ダメだと言っても、どうせ聞かんのだろう」
「わかってるじゃないか」
 いつの間にか、サイドテーブルの中央に置かれた積み札と、五枚ずつ配られたカードを見て、ミロは、勝負の準備がすでに整っていることを知った。
「次に負けた方が、勝った方の言うことを一つ聞く」
「わかった」
 間髪入れず、ミロはうなずいた。カノンが要求するというものが気にならないわけではない。だが今はそれよりも、勝負に勝って、カノンの余裕を崩すことの方がミロには大事だった。涙まで流して笑われたことがどうしても癪に障って、ミロの眠気はいまや完全に吹き飛んでいた。
 ミロは手持ちの札を確認した。スペードの四とクイーン、ハートの四、ダイヤの二とクイーン。すでに役はツーペアがそろっていた。ダイヤの二を捨ててフルハウスを狙ってもいいし、このままツーペア狙いもありだろう。地味な手だが、初回の手札としては良くもなく悪くもなくといったところか。ではカノンの方はどうだろうか。ミロは目線だけを動かしてその様子を盗み見た。
 カノンは、まったくの無表情だった。
 思えば、ミロの知る限り、カノンはいつでも何らかの笑みを浮かべていて、その顔から表情が失われるところを、そういえば見たことがない。先ほどまで、やや気むずかしそうな顔をしたり、肩をすくめて見せたりと、わざとらしく振る舞っていたカノンだが、今はそういった悪ふざけが一切感じられなかった。かといって、真剣と取れる必死さもなければ、敗北することへの焦りもない。
 それを目にしたとたん、わかりやすく動揺する自分に気がついて、ミロはくちびるを固く引き結んだ。存外、カノンも真剣なのだ。無論手を抜くつもりはないが、ここは慎重に勝負を挑むべきであると、ミロの直感が告げていた。
 堅実にツーペアの札を手元に残し、ミロは積み札からカードを一枚だけ引いた。わざと緩慢な所作でカードをめくる。絵柄が見えたので一瞬ドキリとしたが、残念ながらスペードのジャックで、フルハウスには及ばなかった。思わず息をつきそうになり、ミロはあわてて姿勢を正す。いつものカノンならば、ここで揶揄の一つも飛ばしてくるところだろうが、今はそれがない。ここにきてもやはり、カノンの顔に感情らしい感情は浮かんでいなかった。
 だが、ミロが手持ちの札をすべて伏せたことを確認しても、カノンは詰み札に手を伸ばさない。不審に思いつつ、ミロは静かにカノンを促した。
「……そっちの番だぞ」
「このままでいい」
 ミロは瞠目した。それは、よほど自信のある役がそろっているということか。それともただのポーズか。黙ってカードを伏せ置くカノンの表情からは、勝利の確信、敗北の諦念、そのどちらも読み取れない。
 命に近いものを要求すると、カノンは言った。かつて世界を手にしようとした男が、今望むものが何なのか、気にならないわけではない。けれどまだ勝敗を決したわけではないし、たとえ敗北したところで、その時は潔くカノンの要求を呑むだけだ。何を求められたとしても、出ないものは逆さにしても出ない。
 杞憂は不要だと自分に言い聞かせ、ミロはそれ以上の詮索を打ち切った。いずれにせよ、賭けから降りるという選択肢はない。なにより、勝負の瀬戸際になって、このような思考にふけることは、ミロのプライドが許さなかった。
「では、ショー・ダウン」
 静かに宣告して、カノンが手元の札を一枚一枚めくっていく。自分の手札を見せることも忘れ、ミロは固唾を呑んで卓上のカードを見守った。
 カノンの手札は、スペードの三と八、ハートのジャック、クラブのキングと、ダイヤのエース。
 役が、どこにも見あたらない。
 ミロはあ然とした。
「何をしてる。さっさとそちらの手札を見せろ」
 今度はカノンに促され、ミロは黙って手元の札をめくって見せた。スペードの四とジャックとクイーン、ハートの四、ダイヤのクイーン。勝負は、ツーペアでミロの勝ちだった。
 拍子抜けするあまり、ミロはもう一度おのれの手札とカノンの手札を見比べた。何度見ても、カノンの役はノーペア、つまりブタである。
 騙された。
 心のどこかで安堵する一方、してやられたという悔しさで、ミロは拳を強く握りしめた。カノンの顔を仰ぎ見ると、無表情から転じてさも楽しそうな笑みを浮かべており、勝利したというのに、ミロはまったくそんな気分になれなかった。
「オレに負けたのが、そんなにうれしいか?」
 からかわれたのだと、憤りをあらわにするのも腹立たしい。だが、それを隠し通すのもかえってみじめな気がして、ミロの声音は自然と高くなった。頬のあたりが熱くなっているのが自分でもわかったが、ここには、落ち着けと諫めてくれる友はいない。
 怒りで拳を震わせるミロをなだめるでもなく、かといって皮肉に嗤うでもなく、カノンはその優美な目元をふとほころばせた。その様子が、あまりにも揶揄や嘲笑といったものからかけ離れていたので、ミロは思わず口をつぐんでしまう。
「わかってないな。これでいいんだ」
「……何だと?」
 ミロは瞳を瞬かせる。頭の中は疑問符の嵐だった。カノンの考えていることがいよいよわからない。勝負を仕掛けてきたのはカノンの方で、なのに負けたくせ、これでいいと笑ってみせる。それが強がりやポーズの類でないことは、カノンの態度を見れば明らかだった。
「一時とはいえ、他にはないスリルを味わえただろう?」
 ぱちりと片目を上手くつぶってみせるカノンに、ミロは閉口した。
 ではカノンは、はじめから勝つ気などなかったということか。確かに眠気は一瞬にして吹き飛んだが、それにしたって、やることがいちいち大げさ過ぎやしないだろうか。まんまとカノンの策略に乗ってしまった自分にも腹が立つ。
「いいから望みを言え。何でも一つ、聞いてやる」
 穏やかな声音が、ミロを諭すようにささやいた。これでははじめからカノンに勝ちを譲られたようなものだが、ミロはすぐさま思い直した。ここでぐずっても仕方がないし、かえって潔くない。
「ミロ」
 ふたたび促される。だがそう言われても、実はミロは自分が勝った時のことを考えていなかった。カノンの悔しそうな顔を見ることが目的だったので、そのことがすっかり頭から抜け落ちてしまっていたのだ。けれど、何もないでは格好がつかない。ミロは仕方なく、頭に浮かんだ欲求を呟いてみることにした。
「……静かに昼寝がしたい」
 表情こそ変わらなかったが、カノンが一度だけ大きなまばたきをしたので、ミロはしまったとほぞを噛んだ。子どもっぽいし、あまりにもくだらなかったか。せめてカノンが困るようなものを要求してやればよかったと、今さらながらに考えを巡らせる。
「昼寝か」
 カノンが繰り返した。前言撤回をするわけにもいかず、かといってそうだと胸を張るのも気が引けて、ミロは曖昧にうなずくしかなかった。
「わかった」
 言うが早いか、カノンはミロの背と膝裏に素早く手をまわし、ミロの身体をソファに横たえた。それがあまりにも一瞬のことで、ミロは抵抗するのも忘れ、反転した視界いっぱいに迫るカノンの容貌を仰ぎ見た。
「おやすみ、ミロ」
 やわらかな声音だった。細められた目尻と弧を描くくちびるは、今まで見たどのカノンの顔よりも、優しく、穏やかだった。かぶさってきた影に覆われるのと同時、さらりとしてツヤのある感触が頬に降ってきて、ミロは自分の想像が外れていなかったことを知った。
「眠るまで側にいてやろう」
 カノンのくちびるが動くと、熱い吐息が産毛を撫でるように吹き付けてきて、ミロの心臓はどきりと跳ねた。とっさに身を捩ろうとするが、ソファとカノンの身体に挟まれて、うまく身動きが取れない。
 いっそ凄みのあるといってもいいカノンの美貌は、同性でも見惚れるほどで、そんなことは知っていたはずなのに、ミロは大いに動揺した。それを悟られたくなくて、手のひらをカノンの顔に押しつける。やわらかな感触はカノンのくちびるだと知れたが、今はそんなことにかまっている余裕はなかった。
「退け! 一人で寝る」
 ぐいと顔を押しやっても、カノンはまったく動じない。この世にたった二つだけのうつくしい顔が、今、手のひらで押しつぶされてどんな顔になっているのかを考えると、ミロは少しだけ罪悪感に襲われた。
「一緒に寝るなとは、望みの中に入っていなかった」
「……!」
 手のひらに押しつけられた、やわらかくて熱いくちびるの感触に、ミロはぞくりと肌を震わせた。どんな理屈だと怒鳴りつけてやろうとしたのに、それができない。あわてて手を引っ込めると、ふたたびカノンの端正な容貌が目に入った。これはもう視覚の暴力だと、ミロは思う。
「なんなら、もう一勝負するか?」
「……望むところだ」
 それでこの顔から解放されるのなら、喜んで。
 めずらしくカノンの方から出された助け船は、よもやミロが、カノンに見惚れているとは考えも及ばないからこそのセリフだろう。ほっとしつつも、ミロは何とかいつもの調子を取り戻し、それからやっと、カノンの身体を押し返すことに成功した。ふたたび勝ち気に瞳を輝かせるミロの手を取り、カノンはその身体をソファから引き起こす。
「そう来なくては。だが、ミロ」
「何だ」
「おまえ、ポーカーには向いていないな。外ではやらない方がいい」
「……」
 余計な世話だとその手を振り払えば、カノンのセリフを肯定したことになる気がして、ミロは黙ってソファから立ち上がる。せめてもと思い、卓上にあるカードの山をわざとぐしゃぐしゃにしてやった。
「怒ったのか? 本当にわかりやすいな」
 くくっと喉を鳴らして、人を食ったような笑みを浮かべるカノンにわからないよう、ミロはひそかに安堵のため息をついた。
 カノンは、その顔がいい。
 無表情よりも、妙に優しげな眼を向けられるよりも。
 その、微笑みで。

 カノンに倣い、みずからも口の端をつり上げると、ミロは精一杯強気な笑みを作って見せる。
「ほざけ。ここからが本番だ」
 上手く笑えていたかどうか、ミロにはわからない。けれど、頭の芯はすっかりクリアになっていて、しばらくは退屈しそうにない。
 カノンの気まぐれにも、たまには感謝してやってもいいかも知れないと、ミロは心の中でこっそりつぶやいた。