インターセプター


 気まぐれや、冗談なんかじゃない。
 愛している。
 ――ただ、愛している。

 目の前で、ひしとミロを抱きしめ、祈りにも似た愛の言葉を捧げるカノンを、途中から存在をなかったものにされたサガは、固唾を呑んで見守ることしかできなかった。

 一方的な抱擁は熱烈で、見ている方が恥ずかしくなるくらい甘やかだった。カノンの腕の中に閉じ込められたミロは、もう支えられずとも、自分の足でしっかりと地を踏みしめる力を取り戻していたようだったが、腕を振り払うことはしなかった。

 告白を受けても、ミロはカノンへ否も諾も告げなかった。かといって、かたくなに拒むそぶりも見せず、結局カノンに引きずられるようにして、ミロは双児宮をあとにした。
 その後の二人がどうなったのかを、サガは知らない。また、いちいち報告しに来るような弟でもない。

 だが、去り際の一瞬、カノンがちらりと投げてきた視線に、サガは内心ぎくりとした。
 カノンが双児宮へ到着するまでの間、ミロへかけていたおざなりな言葉を、見透かされたような気がしたのだ。



 釘は、早めに刺したつもりだった。
 しつこくミロへつきまとっていたカノンが、ある日を境に、そうすることをぴたりとやめた。ミロの戸惑いはもっともだろう。だが、よもやカノンがミロへ抱く劣情を抑えつけているせいだとは、予想だにすまい。
 ――ならば気づかせてやればいい。

 その日、カノンが任務の報告のため、教皇宮の執務室を訪れることは、前もって知らされていた。書類を片づける手が足りないといって、ミロへ助力を乞うたのも、鉢合わせしたところで食事を提案するのも、すべては計画通り。
 ただ、ミロが激情のままカノンを責め立てなかったのは、想定外だった。意外とあれでいて、ミロにも思慮深いところがあるのを失念していた。
 だから、エーゲ海の孤島へ赴く黄金聖闘士の選出には、みずから携わった。ミロが負傷することまではさすがに予期していなかったが、いずれにせよ、サガの思惑通りに事は運んだ。想いを寄せる相手と二人きりで、あの弟が何ごともなく終われるはずがない。
 予感は見事に的中した。

 蠍座のミロという男は、聖域を象徴するといってもいい、正統な黄金聖闘士だ。ギリシャに生まれ聖域で育ち、幼い頃から黄金としての資質を開花させた、金の髪に青い瞳の青年は、まさに聖域が理想とする聖闘士像そのものだろう。脛に持つ傷もない。
 何があろうと敵に屈さず、毅然として誇り高いミロの気質は、自身の高潔さはもちろん、その育ちからくるものに寄るところが大きい。
 その矜持の塊のような男が、都合よくカノンの想いを受け入れるわけがない。それはカノンも重々承知しているはずだ。だからこそ、カノンはみずからミロと距離を置き、そして、胸焦がすような馬鹿げた想いに、その身を苛まれているのだ。

 毒素の分析のために得た検査結果から、二人の身に何が起きたのかを想像するのはたやすかった。ミロを気遣うふりをしてカノンを煽ったのは、すべてを終わらせるためだ。
 カノンが抱くその感情が、どんなに無謀で、望みのないものかということを、わからせてやりたかった。
 カノンの動揺を誘い、決意を促すことには成功した。けれど事態は、サガが思い描いた方向とはまるで逆の局面を迎えることになった。
 歯車の回し方をどこで違えたのか。
 振り返ってみれば、はじめから誤っていたのかもしれない。



 十月十日。
 同じ胎内で育まれた命を分け合って生まれた――
 誰よりも憎くて愛しい、たった一人の弟。
 カノン。



 許せないと思った。
 黄金比とも呼ぶべき双子の掟を、いともかんたんに覆し、断ち切ろうとする弟が。
 ミロという新たな光を得て、一人、外の世界へ手を伸ばそうとする。
 美しい言葉を使うのであれば羨望、醜い言葉であらわすのなら怯懦。
 おまえは、わたしの影ではなかったか。

 光なきところに影が生まれぬように、また、サガのいない世界でカノンは存在すらできないのだ。
 だからカノンにとっての光とは、サガであるはずだった。いつでも。
 けれど、本当にそうだったのだろうか?

 カノンはサガの影として生まれたのかも知れないが、あの日、サガの心に巣くった闇は、まぎれもないサガ自身のもので、決してカノンではない。
 そのことに、諦めにも似た絶望を抱く反面、それでいいと安堵するおのれの本性は、闇か光か。
 カノンは、本当に影だったのか?

 サガにはもう、だんだんとわからなくなってきていた。



――人は変わるものだ。

 力強く、何よりもまばゆい光を放つ、青い輝き。
 これが、今生でおまえが見出した、たった一つの光か。
 カノン。



「カノンのもとへ?」
 教皇の間、謁見を終えて身を翻したミロへ、抑揚のない声音でサガが訊ねる。
「答える義理はない」
 迷いのない、短いいらえだった。もしかすると、ミロは最初からどちらとも取れる答えを用意していたのかも知れない。
「サガ。一つ聞いてもいいか」
「ああ」
 ミロが振り返った。ひたとサガの顔を見据える双眸は穏やかだが、どこかもの悲しい光をたたえてもいる。
「おまえは――カノンのことが憎いのか」
 ミロの瞳が品定めするかのように煌めいても、サガは眉ひとつ動かさなかった。
「どうだろうか。少なくとも、もう、以前のような確執はないと、わたし自身は感じているのだが」
 嘘ではない。今は本当にそう思っているし、願ってもいる。
「そうか。よもやとは思ったが、今回の沙汰、オレとカノンとで、あまりにも開きがあるように思えて、な」
「それは誤解だ。カノンみずからが望んだことだ。わたしの意思ではない」
 これは嘘。だが、今は必要なものだ。ミロやカノンにとっても、自分にとっても。
「わかった。それだけ聞ければ十分だ」
 うなずいて踵を返すと、ミロは今度こそ振り返らず、教皇宮を後にした。



 カノンが引き籠もったあの部屋へ、ミロ一人ではたどり着くことができないだろう。オアシスのない砂漠で、水を求めて彷徨うようなものだ。意図してそういう構造になっている。
 だが、それでもミロは行くのだ。きっと。
 カノンのもとへ。

 双子座の黄金聖衣をカノンへ継承させ、その守護を托したとはいえ、サガが双児宮へ与える影響力が薄れたわけではない。苦笑して、サガは離れた双児宮を想う。
 通り道を開くすべは、実に単純なものだ。ミロがカノンのもとへ、無事たどり着けるよう願うだけ。

 サガがかつて、カノンの秘密の部屋へ向かう時、いつもそう願ったように。

「……四十八時間だぞ、カノン」

 誰もいない教皇の間に、サガの独白だけが響き渡る。

 謹慎を命じたのは、本日の夕刻から、ちょうど丸二日。
 つまり少なくともその間は、二人の姿が見えなくとも、誰も不審に思わないし、探さないということだ。

「せいぜい、有意義に使うことだ」

 わざと皮肉な物言いをしてみせると、若干、気分が浮上した。
 羨ましいとは、今は、口にしたくない。

 カノンが昔抱いていた想いは、これに近いものだったのだろうか。
 いつか聞いたら、あの弟は、教えてくれるだろうか。

 小さく頬をゆがめると、サガはふたたび、玉座へ深く掛け直した。