君が欲しい


 聖戦が終わり、世界にふたたび平和が訪れたあと、聖域にとどまることを選んだ理由はいくつかある。
 ひとつ、女神の慈悲に報い、聖闘士たる役目をまっとうするため。
 ふたつ、さしあたって他に行くあてもないため。
 みっつ。

「何がおかしい」
 不意に険のある低い声に問われて、カノンは思わず瞳をまたたかせた。隣では、正装したミロが不機嫌そうな面持ちでグラスを傾けている。
 地中海を映したような青い瞳と、豪奢な金髪が黒の燕尾服によく映える。カノンとて服装だけなら同じものを身につけているのだが、黒と金の絶妙なコントラストにはとうていかなわない。
サミットに参加する女神に随行してオーストリアに入国したのはつい数時間前。そろそろ日が沈もうかという頃合いだった。
 グラード財団総帥という肩書きを同時にもつ女神は、なにかと多忙である。要人であるゆえの危険がつねにつきまとうため、聖域からの外出時には教皇から任命された黄金聖闘士が二人一組で護衛につくことになっていて、今回はミロとカノンに白羽の矢がたてられたのだった。
 サミットの開催は明後日だが、今夜は財団にゆかりのある公爵の夜会に招かれており、女神とともに国境付近の古城に一泊することになっている。

「……で、何だと?」
「にやついていただろう」
「オレが?」
 聖域に残ったおもたる理由である本人にそういわれては、カノンとしても思考を中断せざるをえない。
 正直に、おまえのことを考えていたと話したらミロはどんな顔をするだろう。納得のいく説明をするまで言及されるかもしれない。あきれるほど真っ直ぐで、ごまかしのきかない男だ。短いつきあいだがそれくらいはわかる。

 聖戦の夜、殺気をみなぎらせて必殺技を容赦なく打ち込んできた蠍座の黄金聖闘士は、たった一夜のあいだに生と死の両方をカノンにあたえた。それこそまるで傲慢な神のように。
 裁かれる価値さえなかったこの身に、断罪という手段をもって救いの手をさしのべた男は、死ねと口にしたくちびるで、今度は黄金聖闘士として生きろという。

 ここにはもはや敵はおらん――

 黄金聖闘士 双子座のカノン、と。
 刹那、胸の内からあふれた感情を何と呼べばいいのか、カノンは未だわからずにいる。けれどあの夜、女神神殿で出会ったのがミロ以外であったなら、自分は今ここにはいないだろう。
 ミロの存在がカノンを聖域につなぎとめている。その事実さえわかっていれば、今はそれで十分だった。

「カノンよ、ここに来た目的を忘れたわけではなかろうな」
 慣れない正装で女神の夜会に同伴しているせいもあるのだろうが、ミロはずいぶんと格式張ったいいかたをする。目の前に並ぶのは、せっかくの高い酒、豪華な食事、生演奏。聖域ではどれもお目にかかれないものばかりだ。こんなきらびやかな場所で杯を傾ける機会もそうないのだし、もう少し肩の力を抜いてもよさそうなものを――。
 そんな風に思うのは、自分が女神の聖闘士になってまだ日が浅いせいだろうか。
 だがカノンとしても、まるで任務を怠っていると思われたくはなかった。とくにミロだけには。
「無論。女神ならばすぐそこで談笑しておられるではないか」
 パーティのあいだ中、立派な体躯の男性二人がずっとそばについていたりしたら、わたしはご婦人方とささやかなおしゃべりさえできないではありませんか、という女神の主張にまんまと押し切られ、仕方なく少し離れた場所から少女を見守ることになった黄金聖闘士二人である。
 サガやシュラあたりに知られたら、何のための護衛かと盛大にわめかれそうだが、幸いここに彼らはいないのでよしとする。
 カノンが見る限り、華やかなドレスを身にまとい、同世代の少女たちに囲まれ、にこやかにほほえむ女神の様子に、とくに異変は感じられない。
 ふと、こちらの様子に気がついた女神と目が合った。そっと手を振ってみせてきたので、カノンも小さくほほえみうなずき返す。女神を囲む少女の輪がひときわ大きくさざめいたが、今はそれよりもミロの機嫌を直すことの方が先決だった。
「何の問題もなかろう?」
 逆に問いかけてみると、そんなことはわかっているとばかりにミロは小さく鼻を鳴らし、カノンから目を背けてしまう。
「ならそのゆるみきった顔をなんとかしろ」
 残りのシャンパンを一気に飲み干すと、ミロは吐き捨てるように言った。自覚がないという意思を示したつもりなのに、ずいぶんな言いようだ。どんな顔をしていようがひとの勝手だろうとは思うのだが、なぜだかミロには逆らえない。
 おのれの頬に手をあてがい、顔の筋肉を動かしてみるが、そもそもどんなタイミングで頬がゆるんでいるのかがまずわからないのだ。指摘されたからといって、かんたんに直せるはずもない。
「代わりは?」
 空になったミロのグラスを顎で指し示す。ミロの雰囲気に圧倒されてか、さっきから替えのグラスがまったく運ばれてこない。気分転換にとすすめてみたのだが、それもあっさり一蹴された。
「いらん。酒を嗜みに来たわけではない」
 確かに、自分と違ってミロはまだ一杯目のグラスをやっと飲み干した程度だ。酒は嫌いではないはずだが、よほどカノンの態度が気に入らないのだろう。
 手持ちぶさたになったカノンは、仕方なくワイングラスをくるりと回すと、ミロにわからないようにこっそりため息をついた。
 それにしても、二人で女神の護衛にあたるのは今回がはじめてだが、聖域でのミロはここまでカリカリしていることはなかったように思う。いくらなんでも神経質すぎるのではないだろうか。
「……何かあったのか」
 あれこれ思い悩むのは性に合わない。カノンは単刀直入に切り出すことにした。声のトーンをおさえ、女神から見てミロが死角になるよう立ち位置を変える。心優しく聡い少女に、余計な心配はかけたくない。
 するとミロはあきらかにむっとした様子で、まなじりを厳しくつり上げた。
「何かとは?」
「機嫌が悪い」
 すかさず指摘してやると、ミロの眉間のしわがいっそう深くなる。怒るのは図星をさされた証拠に他ならない。
「その顔。自覚がないなら鏡を見てきたらどうだ?」
 とどめとばかりにカノンがとんとん、とおのれの額を指さした。ミロは一瞬何ごとかを言いかけたが、結局言葉を告げることなく黙り込んでしまう。
 言いよどむミロなどめずらしい。眉根を寄せて足下に視線を落とすミロは、今までに見たことのない悔しそうな顔をしていた。頬がやや紅潮しているのも気になった。あれしきの酒で顔に出るたちではないから、酔いのせいではないだろう。
 ミロの態度を責めるつもりは毛頭なかった。ただなにか思うところがあるならば、その理由を教えて欲しいと思っただけだ。
 激情家と評されるミロだが、一度認めた相手のことは慮る、懐深い男であるとカノンは感じている。このことは聖戦の夜に身をもって実証済みだ。単純な性格だが、理由もなしに他人を無碍にあつかうことはしないし、できない。そういう男だ。
 そのミロが、なぜ理由も告げずこんなにも不機嫌さをあらわにするのか、悔しそうに口をつぐむのはなぜなのか――知りたいと思うのは、単なる好奇心からか。
 二十八年間生きてきて、これほどまで他人の態度を推し量った経験がカノンにはない。誰がどんな振る舞いをしていようが気にしたことはなかったし、その理由について知りたいなどと考えたこともなかった。けれどミロといると、全身がアンテナを張り巡らせたようになる。目線、まつげの動き、呼吸、どれひとつとして見逃したくない。
 そしてミロのなかで、自分という存在がどんなふうに映っているのだろうとか。

 いずれにせよ、背けられたままのミロの横顔が気にくわない。人と話しているときに目をそらすなと文句を言ってやりたいところだが、さすがにこれ以上煽るのもどうかと思うので自重する。かわりにミロの顎を片手でとらえ、やや強引に正面を向かせてやった。
「な」
 青い眼を大きく見開いて、ミロが驚きの声をあげる。
「何をする!」
 突然のできごとにうろたえる様子は、無理矢理抱き上げた腕から逃れようとする、気位の高い猫のようだ。
 思ったより大きく張り上げられたミロの声が、ホール中の視線を独占した。ただでさえ、長身の燕尾服が二人連れで目立っているのにこれはまずい。カノンはミロの襟をさりげなくととのえてやるふりをして、金の髪が縁取る頬に、そっとくちびるを寄せささやいた。
「勘違いなら悪かった。――注目を集めるからここではよせ」
「!」
 はっとしたように我に返ると、ミロはばつの悪そうな顔になる。逆立てた毛が元に戻った、とカノンは思った。襟元からそっと手をはなす。
 だがふいにきょろきょろとあたりを見わたすと、今度はミロの方が、カフスを引き千切る勢いでカノンの袖を引っぱった。そのまま連れられて向かう先には、夜風を好むゲスト向けのテラスがある。幸いほかに人影はなかった。
 テラスからは、公爵家自慢の薔薇園が見下ろせた。さすがによく手入れがされているようで、ゲートにそって白薔薇のアーチが見事に咲き誇っていた。つよい芳香がテラスまで漂ってくる。
「風情があるな」
 思わずそう口にしてみたが、ミロは無言だった。ホールで聞かれてはまずい話をするためにわざわざここまで連れてきたのだろうが、男二人で来る場所ではなかったかもしれない。噂好きそうな婦人たちが何組か、チラチラとこちらを盗み見しているのが視界の端に見えた。
 その視線に気づかぬふりで、カノンは、女神の様子が確認できるようテラスの桟に背をあずける。ミロはそんなカノンの正面にまわると、意を決したように腕組みになった。ミロの位置からすると女神は完全に死角になるが、カノンに任せているのかそこまで気がまわっていないのかは謎だった。
「なにかあったのか、と聞いたな。カノン」
「ああ。言った」
 うなずくと、ミロのこめかみがほんのわずかひくりと動いたような気がした。両の目を閉じて、大きくため息をつくミロのこの表情は好きかもしれない。意外とまつげが長いこともよくわかるし、腕組みに瞑目のポーズはどこか無防備なようにもみえる。
「……ならばオレからも言わせてもらう」
 もったいぶって目を見開いたミロは、カノンの方へ一歩前進すると、ひと息に言ってのけた。
「それはこちらのセリフだ!朝からずっと人の顔をじろじろ見てはにやつきおって!言いたいことがあるならはっきり言え!」
 人気のないテラスといえども、一応耳目は気にしているようだ。低いがすごみのある声だった。視界いっぱいにせまったミロの顔をまじまじと見つめ、しかしカノンははてと首をかしげる。
「朝から、ずっと?」
「二度言わせたいのか?」
 冷ややかに、けれど怒りを含んだミロの声音は地を這うように低い。不機嫌はピークに達しているようだ。
 早朝に教皇の間で旅のルートと大まかな日程を確認し、待ち合わせて女神を迎えて財団所有の自家用ジェットに乗り込んだのが昼前だから、朝からというと、聖域を出る前からということになる。実に半日以上だ。
 それほどまでに長い間、自分はミロのことを凝視していたのだろうか。指摘されても自覚がないのでわからない。けれどミロの気に障るほど頬がゆるんでいたのは確かなようだ。そうでなければミロがこれほどまでに怒る理由がない。
「何とか言ったらどうだ!」
 ミロの声がだんだんと高くなる。ホールでは何人かがこちらを気にしている様子だったが、今そのことを口にすれば、ミロはきっと話を逸らすなと激昂するだろう。そうなると弁明の機会は二度と与えられないような気がしたので、カノンはあえてだまっておくことにした。
 ミロの青い瞳は怒りに燃え、カノンを映して輝いている。こんなに近くでミロの瞳を見たのは初めてだが、やはりエーゲ海の青だとあらためて思った。カノンが好きな色だ。
「じろじろ見られるのは好かん。オレが一体何をした」
 言え!と肩をゆさぶられ、カノンは思わず声に出して笑ってしまった。そうだったのかと、やっと合点がいった。自分はずっとミロを見るたび、知らず頬の筋肉がゆるんでしまっていたのだ。
「くっ……あっはっは」
 声に出して笑ってみたら、自分でも聞いたことのないテンションで驚いた。こんな声が出せるのかと思うとまたおかしくて、いっそ笑いが止まらない。
ミロを見ているのは楽しい。
 ミロと一緒にいられるのはうれしい。
 そんな単純なことに今まで気づかなかったのは、この気持ちが生まれてはじめて抱くものだからだろう。我ながら、この歳になって今さらと思うが、真実なのだから仕方がない。まあ死ぬ前に知れただけでもよしとしよう、などとどこか達観したような気分にもなる。

 おまえは何もしていないと話したところで、ミロに理解してもらえるだろうか。理解できるように話すのもまた骨が折れるような気がするが、それはそれで楽しそうだ。
 ゆさぶられた勢いを借りて、カノンはミロの肩口に顔を埋める。ふわふわした癖毛が耳にあたってくすぐったい。コロンも何もつけていないミロの無骨な身体からは、夜だというのに日なたのいい匂いがした。
 そのままつるりとした手触りの燕尾服に手をのばすと、がっちりとした腰を引き寄せて力強く抱きしめる。
「何を……」
 動揺して身体を引かせようとするミロの背を、逃がすまいと掻き抱いた。クセの強い金髪は、見た目よりもずっとやわらかくて繊細で、たやすく腕の中からこぼれ落ちそうになってしまう。
 そうだ、ずっとこうしたかった。
 見ているだけでは物足りなくて、感じたかった。ミロの肌を、体温を。
 ミロのどんな表情でも見たい。知りたい。だから目が離せなかった。
 たとえば、こんな風に抱きしめたらプライドの高いミロはどんな反応を示すのかとか。
「カノン!」
 顔は見えないが、横目で確認したミロの耳たぶが真っ赤に染まっているのがわかる。そっとくちびるを寄せると燃えるように熱かった。この熱に、もっと触れていたいと思う。
 誰よりも近くで。
 ミツバチが花の蜜に誘われて引き寄せられるように、やわらかなそれを口に含もうとして――。
 バチッと、左の鼓膜を耳慣れない音が打つ。ミロの平手だった。
 拳でないだけまだましで、とっさに手加減をしてくれたのだろう。ここが公の場だからか、それともカノンのことを仲間だと思ってくれているからなのかはわからないが、ミロらしい配慮だった。
 ざわりとホールが不穏な空気で揺れるのがわかる。目立つ男の二人連れが、人目を忍んで抱き合うさまは、端から見ればいいゴシップネタだろう。
 見れば女神までもが、何ごとかと目をまるくしてこちらを見ている。心配そうな視線を送る少女に、カノンは何でもないと目配せしてみせた。
 頬を打った勢いに任せ、ミロの身体はカノンから数歩下がったところへ退いていた。衆目を浴びていることに気づいて、ミロ自身もうろたえているようだ。真っ赤だった頬は、いまや蒼白に近い顔色になっている。
 やりすぎたかとカノンは思った。ミロをこんなふうに動揺させるつもりはなかったし、悪目立ちする可能性を考えなかったわけではない。ただそれでも、どうしても我慢ができなかった。ミロの肩や髪に触れた瞬間、体裁だとか立場だとか、そういうことは一切吹っ飛んでしまって。
「ミロ」
 人差し指だけを動かして、ミロの注意をひく。
「ほかのゲストの注目を集めてる。……女神も心配されている。わかるな?」
 はじめて、ミロに対して年上らしいことを言っているという自覚があった。ミロの肩がわずかに身じろぎ、視線が床に落とされる。悔しそうにくちびるを噛むその仕種が、おのれが考えなしにミロを抱き寄せたせいなのだと思うと、胸がきしむような感じがした。ミロには、笑っていて欲しいのに。
 そのとき、ホールから軽やかな調律の音が聞こえてきた。ピアノの旋律だ。そうか、とカノンは妙案を思いつく。
「!」
 カノンに対し警戒心を解いたわけではないミロの手首をつかむのは、勇気が要った。また騒がれでもしたらことだ。けれどミロは身体を小さくこわばらせただけで、抵抗する様子は見せなかった。その様子がなんだかやけにしおらしくて、また別の意味で胸がきしきしと音をたてる。不快ではなかった。
「お、おいっ……」
 旋律が流れはじめたホールへ向かって、ミロを無理矢理引きずるように連れ出した。まばゆいホールは光の洪水に満たされているようで目がくらむ。同じくらいまぶしいミロの金髪が、勢いにたなびいてふわふわと揺れた。
 ホールの衆目はいまや燕尾服の二人連れに釘付けだった。薔薇香るテラスで、意味深な空気を振りまいていた見目麗しい青年二人の様子に、老若男女とわず誰もが色めき立っている。素性は見るものが見ればすぐに城戸沙織の連れだと知れるだろう。カノンは心中でそっと女神に詫びた。そして願わくば、この事態が双子の兄の耳に入らないことを祈る。
「今度は何をする気だ」
 手首をつかまれたまま、ミロが低くうなった。さすがにここにきて張り手を食らわすつもりはないようだが、攻撃的な小宇宙が身体中にみなぎっている。
 そんな風に気を張らなくてもいいとつたえてやりたかったが、今のミロには何を言っても無駄なような気がした。だから、できるだけ楽しげに、軽い口調でささやいてやる。
「ホールを騒がせてしまった詫びに、余興をひとつ」
「なに?」
 ぽかんと目をまるくするミロの左手をとり、空いた方の手を腰にまわす。背筋を伸ばして正面を向き、腰をぐっと引き寄せれば、ミロの髪と燕尾服がひらりと舞った。
 目線だけを動かして、カノンはピアノ奏者を探し出す。見ればまだ年若い娘だ。彼女も例に漏れず、ホールの中央までずかずかとやってきた男二人に目を奪われていたようだ。ぱちりと片目をつぶって合図してやると、娘は頬を染め、もじもじと椅子に浅く腰掛け直した。調律はすでに終わっているらしい。
「カノン」
 困惑するミロを置き去りにして、ホールには軽快なピアノの旋律が流れはじめた。
 ぱんぱん、とひときわ大きく手を鳴らし、女神がホール中央にすすみでる。
「皆様、わたしの身内が失礼をいたしました。仲直りのワルツです。よろしければ皆様もご一緒に」
 うふふとやさしくほほえみを向ける先は、パーティの主催となっている公爵家の長男で、少女の笑顔にすっかり骨抜きにされている。将を射んとせばまず馬を射よ。さすが女神は心得ている。
 奏者の娘が気を利かせて、ざわめくホールが落ち着くまで、一小節をずっと繰りかえし演奏してくれているのもありがたかった。
 先ほどから好奇の目に晒され続けていたカノンとミロだが、女神の鶴の一声で、なんとなく、周囲からそそがれる視線がやわらかくなったように感じられる。くすくすと、そこかしこから聞こえてくる笑い声に、嫌な響きは感じられなかった。
 カノンと女神の意図を察して、ミロは仕方なくといったふうにカノンの背に腕を回す。そのおずおずとした手つきから、おそらくワルツなど踊ったことがないのだろうと知れた。ミロが踊るはじめてのワルツの相手がこの自分かと思うと、心が弾むような心地がした。おそらく今自分は盛大ににやけているのだろう。だがミロは何も言わなかった。
「……踊れるのか?」
 低い声でミロがたずねてくる。うつむき加減でじっとにらんでくる青い瞳は、羞恥のせいかやや熱を帯びているように見えた。
「お前が女役でよければ」
 じっと見つめていてはまたミロの気に障るかと思い、なんとなく頭上のシャンデリアに目線をやった。ミロは予想通り、怒りで身体をこわばらせる。
「はなせ。誰が女のまねごとなど」
「まあそう言わず、一曲付き合え」
 せっかく女神までがお膳立てに協力してくれたのだ、と目配せすれば、ミロはうっと言葉に詰まり、いからせていた肩をしずかに落とす。心は決まったようだった。
 やがてホールにはあまりにも有名なピアノ曲の旋律が流れはじめる。
 カノン自身も気づいていなかったこの感情に、名をつけるとするならば、それは。
「ジュ・トゥ・ヴ」
「?」
 クラシック曲など、ミロが知るはずもないか。カノンはおかしそうに笑うと、豊かな金の髪に覆われた背に手をまわし、そっと身体を引き寄せる。互いの心臓が触れあうほど近く、布越しにつたわる熱は、おだやかであたたかい。
 他人の体温を心地よいと感じる日が来るなど――思いも寄らなかった。ミロに出会うまでは。
 ましてや、こんなふうに誰かに触れたいと願う気持ちが、自分のなかにあるなどとは。
「な、おいっ……カノン!」
 ミロとつないだ左の手を高く掲げ、腕をぴんと伸ばすと、ピアノの旋律にのって、カノンはゆったりと流れるようにステップを踏みはじめる。はじめは規則正しく三拍子を取りながら、ナチュラル・ターンに切り替える。
「ミロ、顎と背を逸らす。ぶつかるぞ」
「バカ!おまえ、オレはな……ぶっ!」
 ミロが正面を向いたままなものだから、カノンの胸元にぼすんと勢いよく鼻先をぶつけてしまう。それ以前に、カノンの足捌きについてこられていないのは明白で、初心者にありがちな、男役に引きずり回されるようなワルツになってしまっている。カノンの腕力でなければ、とうていミロを支えられはしないだろう。
 まあ見てあの二人。おかしい、いいえかわいいわ、と婦人たちの楽しげな笑い声が聞こえてきて、ミロの頬がふたたび羞恥で薔薇色に染まるのを、カノンは間近で確認した。たまらなくなって、怒らせるのを覚悟で、耳たぶにくちびるが触れそうな距離でささやく。
「……おまえが欲しい」
 音が聞こえたならば、ぎしりという表現が一番近いだろう。身体がいびつに傾いたかと思うと、大きく背をそらせたミロは、戻る勢いでカノンの足を思いきり踏みつけた。
「もう知らん!!」
 女神や衆目の存在を、もはやすっかり失念してしまったらしい。カノンの手を乱暴に振り払うと、ミロは大股でホールの中央を横切り、大扉までを一直線に闊歩していく。
 ひとり取り残されたカノンは、いい笑いものになるかと思いきや、そそがれる視線はさほど白けたものではなかった。むしろ同情の目を向けられているくらいである。
「カノン。ミロは大丈夫でしょうか」
 いつの間にか傍近くまで寄ってきていた女神が、おもわしげに口を開く。カノンはうなずくと、うやうやしく女神の手を取った。
「頭を冷やしてくるそうです。オレもこのあと城に戻ります」
 にっこり笑って見せれば、少女は安心したようにほほえんだ。
「それならよかった。二人の部屋は同室ですから、ゆっくり仲直りしてくださいね」
 ケンカをしたと思われているのだ。女神に要らぬ心配をかけてしまったことを詫びつつ、カノンもつられてほほえみ返す。
「ありがとうございます。ぜひ、そうさせていただきます」

 その後、残り小節を女神と踊るという貴重な体験をすませたあと、ミロが忘れていったコートと手袋をクロークで受け取ると、カノンは足早に公爵家をあとにする。
 宴もたけなわですし、辰巳がいるので今日はもう大丈夫ですよ、と笑う女神の言葉に甘えることにして。

 ホールで踊った曲名は、そういう意味なのだと、今宵一晩かけてかき口説くのもまた一興。今度はミロのどんな顔が見られるだろうと思うと、胸が躍る。

 燕尾服のタイをほどきながら、こんなに夜を楽しみに思ったことはないと、カノンの口元が弧を描いた。

 黒のリムジンが行き着く先は、いとしい蠍座の黄金聖闘士のもと。
 長い夜はまだ、はじまったばかりだ。