「……アイオリア」
「言いたいことはわかる。すまん。オレが軽率だった」
ずんずんずん、とものすごいスピードで天蠍宮へ向かってくる凍気の小宇宙を感じて、ミロは思わず天を仰いだ。その横でアイオリアがのんきにう〜むと腕組みになる。
「まさか氷河がこんなにもミロ想いだったとはな」
いろいろな意味でつっこみどころの多いセリフだが、アイオリアは悪びれもせずうんうんとうなずいてミロの肩を痛いほどつよくたたいた。嫌みでもポーズでもなく本気で言っているのだからこの男はたちが悪い。
「よほどミロのことが心配だったのだろう。かわいそうに」
「かわ……、……誰のせいだ」
ミロが不機嫌さもあらわにひとつためいきをつくと、アイオリアはもう一度「すまん」と言って頭をかいた。
今朝方、敬愛する女神から小宇宙による伝達が入った。いわく、氷河がそちらに向かったのであたたかく迎えてあげてくださいね、とのことだ。しかもミロを名指しときた。氷河が急にたずねてくる理由についてまったく心当たりが思い浮かばないが、かといって女神によけいな詮索をいれることもできない。そこへアイオリアがやってきて、もしかしてあれかもしれんと言うので問い詰めたらあっさり手紙の内容を教えてくれた。
あれだけ言ったのになぜと追及したい気持ちはやまやまだが、アイオリアに悪気がないことはわかっているし、今さら問い詰めたところでもう遅い。
氷河の後見人をみずから買って出たミロとしては、こんな情けない事情を氷河に知られるわけにはいかなかった。それでも手紙の代筆を依頼したのは一刻も早く礼をつたえたいという一心からだった。
そもそも利き腕をやられたといっても二、三日安静にしていなければならなかっただけで、すでに生活には支障のない日々を送っているのだ。口止めしたのにもかかわらずあっさりばらされたのは気分が悪いが、すんでしまったことをとやかく言っても仕方ない。氷河がいま十二宮の階段をものすごいスピードで上がってきていることの方がミロには問題だった。
ミロとて氷河に会えるのはうれしい。カミュが遺したたったひとつの忘れ形見だ。親友が命を賭してまで立派な聖闘士まで育て上げた氷河を、今度はこの自分が守ってやらねばと思っている。
それはミロ個人の勝手な思い入れであり、伝えたことはもちろんなかったけれど、氷河は天蠍宮での戦いや聖衣の修復に恩義を感じてか、日本に帰ったあと手紙をくれるようになった。カミュは聖域を離れていた数年の間、手紙など数える程度しか送ってこなかった記憶があるが、氷河はその点師には似なかったらしい。
手紙はどれも木訥としたとりとめのない内容で、もとより文書など書き慣れていないミロははじめこそ返事に手間取ったが、どんなに味気ない反応(とミロは思っている)を送っても、氷河からの手紙が途絶えることはなかった。
つまりひらたくいえば問題は、この異様なスピードの速さと凍てつくような小宇宙だけだった。氷河の小宇宙から感じ取れるのは間違いなく怒りと、そしてミロの身を案じてゆれる不安定な感情。今さら実はたいした怪我じゃありませんでしたなどと、どのツラ下げて言えるだろうか。いや確かに怪我を負った当初は重傷であったことに間違いはないのだが。
「…まあ、男らしく隠しごとはなしにして氷河と向き合った方がいいとオレは思う」
氷河の小宇宙はアイオリアもひしひしと感じているようだ。こほんとひとつ咳払いをして、もっともらしいことを言う。
「おまえが言うな。というか開き直りか」
「むっ。その言葉は聞き捨てならん」
終始悠長にかまえていたアイオリアがそのときはじめて眉をひそめた。その瞬間。
「何を騒いでいるんです」
ピキリと、氷がひび割れるような音がした――のは、幻聴だと思いたい。こんなのは、いまは亡き親友を本気で怒らせてしまったとき以来のことだ。すこしだけ懐かしい。
「氷河!早かったな」
天蠍宮にあらわれたその影に、アイオリアがぱっと顔を輝かせてつかつかと歩み寄る。氷河はバックパックに紙袋を下げるといったいで立ちで、むき出しの肩を息で弾ませていた。アイスブルーの瞳はあいかわらず涼しげだが、ひたいには汗が浮かんでいる。数ヶ月前に会ったときよりも若干日焼けした肌と、肩よりすこし伸びた髪のせいもあってか、ずいぶんと大人びた面差しになった印象を受けた。
荒い呼吸をととのえながらぺこりとひとつお辞儀をすると、氷河は迷ったように口をひらく。
「急いでると話したら沙織さんが自家用機を手配してくれて……。さっきギリシャに着いたところです」
「なるほど。しかしよく来た。みんな元気か」
アイオリアと笑顔で握手をかわしながらも、氷河の視線は先ほどからほとんどずっとミロ一人にそそがれていた。目が合ったので、ミロはとりあえず片手をあげてあいさつするが、氷河はだまってそれを受け流す。
「ミロ、怪我は? 起きていてもいいんですか」
「ああ、もうほとんど治りかけだ。ナイフもフォークも持てるぞ」
ミロにかわり、あわてたようにアイオリアが話す。手紙のことを気にしているのかもしれなかった。
「本当に?」
氷河の瞳が鋭く光り、ミロを射貫いた。その視線を受け止め無言でうなずくと、氷河はかたくなだった表情をわずかにやわらげほっと息をつく。悪いことをしたと、ミロはこのときはじめて胸の奥に小さな痛みのようなものを感じた。
アイオリアは、二人の間に流れる微妙な空気を察したようで、ではオレはこの辺でと言い置いて天蠍宮をあとにする。去り際、『すまん』とミロにくちびるのかたちだけ動かして告げて。
しいんと、うす暗い神殿に静寂がおとずれた。氷河はだまってミロのそばまで寄ると、お久しぶりですと遅い口上をのべた。ミロもあわててそれにこたえる。手紙に書かれていたとおり、氷河はすこし背が伸びたようだ。まだミロの方が上背があるが、肩幅も広くなったし骨格もたくましくなった。ロシア人とのハーフだと聞いているから、そのうち本当に抜かされるかもしれない。
「これ、土産です。口に合うかわからないけど」
「……ありがとう」
日本の航空会社のロゴがプリントされた紙袋を受け取ると、ミロは無言で氷河を天蠍宮の居室へと先導する。手紙のやりとりからもわかっていたことだが、氷河はいちいちまめだ。聖域にわざわざ手土産を持参する聖闘士をミロはほかに知らない。
「氷河?」
だが氷河は立ち尽くしたまま、その場を動こうとしなかった。かわりに重たそうなくちびるをゆっくりとひらく。
「怪我のこと、なんでオレに隠そうとしたんです」
張りつめた声だった。ずきりと胸の奥がうずいた気がした。色彩のない石畳をじっと見つめて、氷河は両の拳を握りしめている。
「オレは心配もしちゃいけないんですか」
ミロは瞠目した。そんな風に思われるとは思ってもみなかった。ただ氷河をわずらわせたくないという気持ちと、立場上みっともないと思われたくなかったからもとより知らせるつもりがなかった。ただそれだけだったのだ。
「氷河、それは違う」
「何が違うんです」
打てば響くように、氷河の糾弾には隙がない。これまでこんな風に誰かに追及されたことなど経験がなくて、ミロはらしくなくうろたえた。何をどう言えば氷河が納得する答えになるのか想像もつかなかった。
「……。オレがなんで怒ってるか、わかりますか」
ぽつりと氷河が言った。ミロはすこし考えて、思いついたままを口にした。
「怪我したことを隠そうとしたから」
「それはさっきオレが言ったでしょう」
「……。それは、そうだが」
ならばほかに何があるのかと考え直す。問答は得意でないからこういう謎かけは苦手だ。間近で見下ろす氷河の長いまつげが、ちらちらとまばたいている。氷河はふうとひとつため息をはき出した。
「ミロがオレの後見を引き受けてくれたとき、うれしかったです。確かにオレはカミュの弟子だけど――そのことを気にかけてくれたのはミロだけだったし」
氷河が急に目線をあげたものだから、その色を至近距離で見つめることになってしまってミロは驚いた。その名にふさわしい、氷原を思わせるアイスブルーの瞳が、いまは切なげにゆらめいている。
「ミロがカミュのことを大切に想ってくれているのがうれしかった。カミュはオレにとっても大切な人だから。そういう気持ちを共有できる人がいることが……オレはうれしくて」
そこまで言って、氷河はふたたび視線を天蠍宮の石畳に落としてしまう。肩の力を抜いて、握りしめていた拳の力を解いたのがわかった。
「怪我をしたって聞いて、いてもたってもいられなかった。飛行機の中で何度も吐きそうになった。――あんな思い、」
そこで氷河は区切りを置いた。
「二度とごめんだ」
そして、教えてくれたアイオリアには感謝してるけどと前置いて、他人の口から聞きたくなかったと、氷河は続けた。
「……すまなかった」
ほかにどう告げたらいいのかわからなくて、ミロはただ謝罪の言葉を口にした。正直驚いていた。氷河がそんな風に思っていてくれたとは、まさか夢にも思わなかったのだ。いや、よく考えてみればわかることなのかもしれないが、思考にふけることさえしなかった。後見を申し出たくせに、氷河のことを何も知ろうとしていなかったのだ、自分は。
くだらない見栄のために氷河を混乱させたことを恥ずかしく思った。こんな体たらくで彼の何を守ろうというのか。
「悪かった」
もう一度、諸々の意味をこめて謝罪する。それをどうとらえたのか、氷河はふと頬をゆるめ、もういいですと首をふった。幼い笑顔だった。願わくばその笑顔をずっと見ていたい。絶やしたくないと思う。自分があのとき守りたいと願ったのはこれだったのかと、ミロは今さらながらに気がついた。
「急に来て、すみませんでした。連絡もよこさないで」
急にしおらしくなった氷河が頭を下げる。いや、とミロは口ごもり、そして素直な気持ちを言葉にした。
「会えてうれしい。よく来てくれた」
氷河の頭に手を置いて、くしゃりと撫でてやる。氷河はびっくりしたように目を丸くして、ミロの顔をしげしげと眺めた。
「どうした?」
「……いえ、こういうことするんですね。ミロでも」
一瞬『こういうこと』の意味がわからなかったが、頭を撫でてやったことを指しているらしい。そういえばほかでしたことがないかもしれないと思ったが、あえてきみだけだと言うのも変な気がして、ミロはだまっていた。
「……疲れているだろう。飲み物を用意しよう」
「おかまいなく。……と思ったけど、オレがやるからミロは座っててください」
氷河の機嫌はやや上向きになったようだ。不意を突いて先に歩き出した背中をあわてて追いかける。
「あれから魚釣りには行ったんですか」
「おぼえていたのか。残念ながらまだだ」
「オレも行きたいな。魚なんていざとなれば素手でもつかめますよ」
「なに、本当か?」
「シベリアではよくやってました。カミュとアイザックと3人で」
「……。さすがというべきか」
シベリアでの思い出話は、昔カミュからもよく聞いた。懐かしい気持ちになって思わず苦笑したら、氷河にじっと顔を見つめられていることに気がついた。
「オレの顔になにか?」
一応お決まりのセリフでたずねてみると、氷河はいいえと首をふる。
「オレもミロの写真が欲しいなと思って。今度送ってください。デジカメとか聖域にあるのかな」
「それはよくわからんが、写真なら昔何度か撮ったことがあるぞ。あとでムウにでも聞いてみよう」
それはぜひ、とうれしそうに笑う氷河の顔を見ていると、やはり不思議と満たされるような気がした。弟子を持つことはなかったが、シベリアで二人の弟子と過ごしていたカミュも、もしかしたらこんな気持ちだったのかとふと思う。
「ミロ」
氷河の手が差し出されたのでなにかと思った。氷河は天蠍宮の居室への扉を開け放ち、先に中へどうぞと言いたいらしかった。まさか自身の守護する宮で、客人たる氷河にエスコートされる日が来ようとは。だがこういうのもたまにはいいかもしれない。
苦笑してそっと氷河の手を取ると、ミロはしずかに一歩を踏み出した。