グッドモーニング、カノン
おい、何をしている。聖闘士どうしの私闘は御法度だと……二人とも聞いているのか? いいから離れろ。少し落ち着け。それにしても、サガは随分と加減を知らないな。相手が弟だからか? くちびるは派手に切れているし、頬はひどく腫れ上がっているではないか。……? 何かおかしなことを言ったか?
ああ、ミスティか。いや何もない。ただの組み手だ。少しやり過ぎてしまったらしい。異常はないから、外にいる雑兵らにも下がるよう言ってくれ。
さあ、そこに直れ。喧嘩両成敗という言葉を知っているか? そうか、ならば歯を食いしばれ。――痛むか。引導代わりだ。事情は知らんが、弟だけこれでは不平等だからな。スカーレットニードル? 兄弟喧嘩の仲裁にくれてやるほど安い技と思うなよ。
妙な縁だが、仕方がない。いいか、言ったことはすべて一度で覚えろ。オレは忙しい。貴様のために割ける時間は、今日というこの一日しかないのだからな。
普段は何をしているのかだと? 鍛錬は欠かさないし、聖域や麓の村の巡回警らなど、やることは山のようにある。……何だその顔は。言いたいことがあるならはっきり言え。
起床時間は五時半から六時までの間。候補生の訓練に付き合う日はもう少し早めに起きる必要がある。早すぎる? 普通だろう。アテナのお膝元で生活するのだから、自堕落な態度は許さんぞ。
朝食は各宮で、女官に支度させる者や自炊する者、さまざまだ。オレの今日の朝飯? そんなことを知ってどうする。
聖域内での任務は大きく分けて三つ。候補生の訓練、聖域周辺の視察、それから教皇宮での執務だ。女神や教皇の勅命については、無論この限りではない。それとごくまれにだが、女神の随行や身の回りの警護などを仰せつかることもある。着て行く服がない? 知ったことか。オレか? いや、これまでに仰せつかったことは一度も……。……。わかった、ついでだ。確認しておいてやる。
任務完了後は、教皇への報告が義務づけられている。例外は認められん。報告書の提出はできれば当日中が望ましい。が、一応期限というものはある。安息日を除き、おおよそ三日程度が目安だそうだ。正確なところはオレも知らん。それで務まるのかだと? このオレが報告書に三日もかけるように見えるか?
羊皮紙の支給は教皇宮の文官が行っている。筆は専用のものを使え。宮に備え付けられているものがあるはずだ。……知らないし見たこともない? 文官に言えばすぐに新しいものを、……今必要だと? 締め切りが今日? バカな。なぜ今になって、……チッ、仕方あるまい。後で必ず返せよ。
差し入れ? どういう風の吹き回しだ。ライスグラタン? ……食い物に好き嫌いはない。おい、勝手に上がり込むなと……! ……、まったく油断も隙もないな。帰る? 待て。そこまで言っておらん。座れ。酒くらいは出してやる。貴様も一緒に食っていけばよかろう。当たり前だ。冷めたら美味くないんだろうが。
毎度飽きもせず……もしかして暇なのか? 酒の肴? またそれか。いい、貸せ。ただしこちらには何もないからな。バカを言え、オレはいつでも多忙な身だ。今日はたまたま非番だっただけだ。というか狙って来ているのではないか? 魂胆が見え見えなのだ。バカめ。
こら、ここで寝るな。双児宮へ戻って……は? 帰れない? いい歳した男が甘ったれるんじゃない。立て。仕方のない奴だ。おい、せめて自分で歩く努力をしろ。
丸二日寝ていないだと? 眠れない? いったい何をやっているのだ。あの宮以外に帰る場所などなかろうに。……だが、まあ、そこまで言うなら付き合ってやらんでもない。ただし翌日が非番の時だけだ。当たり前だ。アテナは貴様にたいそうな期待をかけておられる。無論このオレもな。なんだその気色悪い顔は。
来たか。いいからそこへ横になれ。天の川はわかるな。夏の大三角形は知っているだろう。デネブ、アルタイル、ベガ。これは目立つからまたあとで見つければいい。ここからが本題だ。天の川を南に下ってその先。赤い星が見えるか? あれがアンタレス。蠍座を形づくる星の並びは、英語のアルファベットのSにもたとえられる。スコーピオンのSだな。そうだ。そのために呼んだのだ、悪いか。
無理に眠ろうとするからいかんのだ。いっそ朝までこうしていれば、嫌でも眠気に襲われるだろう。案外にロマンチスト? フン、悪かったな。余計なことをしゃべっている暇があったら、星座の一つでも覚えたらどうだ?
違う。そんなつもりで言ったんじゃない。
持ち前の皮肉っぽい物言いを、この時ほど恨んだことはなかった。いつも通り、軽口の応酬と受け取っていいのか、それとも素直に謝るべきか。こういう時、彼の機嫌を損ねたのかどうか、いまだ正しく判ずることもできないのが口惜しい。
望まない復活を経て、憂鬱な時を刻むだけのはずだった聖域の影は、気がつけばどこかへ吹き飛んでいた。
頭の中で繰り返し再生される美しい彼のビジョン。特別なことは何一つなかったし、会話に抑揚もない。けれどいつだって鮮明に思い描ける。
美しい明けの空。暮れの夕焼け。夜空を覆う漆黒が、日ごと表情を変えることに気づいて驚く。
毎日朝夕を迎えるたび、世界が見違えるのは、きっと彼のせいだ。
あの星降る夜を思い起こせば、自然と眠りにつけるようになっていたことも。
カノン。
他人からこんなふうに名を呼ばれる日が来るなんて、あの頃は想像もつかなかった。
カノンはサガの影。誰にも知られてはいけない秘密の存在。
聖域と呼ばれる女神の庭は、カノンを閉じ込める忌々しい檻でしかなかった。
でも、今は違う。
ミロ。
カノンは急いで頭にかかった靄を振り払った。声のあるじが本当にミロなのか、一刻も早く確かめたかったからだ。それと顔が見たい。ミロの。
目の中へ真っ先に飛び込んできたのは、紺碧から橙に変わろうとしている夕暮れの空の色だった。無数に千切れた白い魚の鱗が、黄昏色を映して、遠くどこまでも広がっている。
隣へ首をめぐらせると、仰向けになって寝転がり、同じ空を見上げるミロの姿があった。今日は二人して非番だった。ともに昼食を食べた後、聖域の外れにあるアーモンドの木の下で、何とはなしに横になっていたところ、思いがけず寝過ごしてしまったのだ。たった今思い出した。
よく眠っていたので起こさなかったと、カノンの方を見向きもせずにミロが告げた。ミロのふわふわした前髪と、ゆるやかに上下する胸のちょうど真ん中に、色素のうすいアーモンドの葉が落ちている。払ってやろうと手を伸ばしかけ、届かないことに気づいてやめた。
気安く声をかけてくるくせに、豊かな金髪が無造作に広がるそのぶんだけ距離を置いている。惜しいと思うのに詰められないもどかしさを、どうにかしてミロに伝えたい。そのすべさえわかれば。
いい夢だったか。そう言って不意に寝返りを打ち、ミロがカノンの方へ向き直ったのでぎくりとした。先ほどまで空の色だけを映して輝いていた青い瞳に、今は自分が映っているのかと思うと、何となく面映ゆいような気持ちになる。ミロの瞳は、いつだって正しいものしか映さない気がするからだろうか。
わからないと、カノンは首を横に振った。嘘ではない。夢というより回想に近い。サガと口論になり、いつも通りあちらが先に手を上げて、気の済むようにさせてやっていたところへミロが来た。二人を見比べて、手を上げられた方がカノンなのだと、ミロは事も無げに看破し、サガへ拳を見舞った。それがはじまり。
ミロはいつだって装わないし、偽らなかった。彼の魂が放つ色と匂いは、カノンのそれとはまるで違う。黄金聖闘士としてあるべき姿を体現したようなミロ。彼はきっと、白く輝く日なたしか知らない。
相容れないと思ったのに、他の誰にもできないやり方で、カノンのことを受けとめ、理解してくれているという感覚だけが、いつまでも残っている。この胸を、あの深紅の針に穿たれた夜のように。
ミロと接した後には、ひどく居心地の良い世界だけが残った。
許されるのなら、この世界に、いつまでもとどまりたい。
世界の中心には、いつも、ミロがいる。
カノン、ともう一度名を呼ばれた。目が合うと、もう大丈夫だなとミロが笑う。
冗談じゃない。何が大丈夫なものか。
どこにぶつけたらいいのかわからない焦燥は、間違いなくミロのせいだ。ミロを知らなければ、こんな気持ちも抱かなかっただろうか?
けれどもう遅い。擦り切れるほど再生しても色褪せないビジョンは、ミロと離れたところで、どれも、きっとずっと鮮やかに生き続けるのだ。カノンの中で。
――ああ、また一つミロのフィルムが増える。
頭を抱えそうになったところで、ミロがまた笑う気配がした。
あの日の頬を撫でる風の冷たさを、今も、覚えている。