インソムニアの男・2014


 定例となった天蠍宮での酒盛りで、ソファに深く身を沈めたカノンが、うつらうつらと寝入りそうになっているのを、ミロは腕組みのまま、黙って見下ろしていた。
 カノンは別に、酒に弱いというわけではない。どちらかといえば強い方の部類に入る。だからこんな風になることは滅多にないし、そもそも、空になった蒸留酒の瓶を見比べても、過ごした酒の量は、いつもとさして変わらぬように思えた。

 安息日の前日、聖域に夜のとばりが下りる頃になると、カノンは決まって天蠍宮へとやってくる。
 手土産だと言ってめずらしい酒を携えてくることもあれば、ひよこ豆とか燻製ニシンだとか、酒の肴だけ持参することもある。サガに押しつけられた、大量の卵を消費したいと言って調理場を占領し、手早くシンプルなサラダにしてしまったのは先々週のことだったか。
 マスタードや葱ならばともかく、オレガノ、ホットパプリカに乾燥ミントなどは、天蠍宮に常備してあろうはずもないから、きっと何から何までカノンが用意したものに違いない。気づいてはいたが、ミロは特に何も言わなかった。とりあえず、腹の中に収まれば何だっていいと思ったのだ。

 気がつけば、カノンはいつも当たり前のようにミロの傍にいて、好き勝手にミロの世話を焼いた。それを許すようになったのがいつからか、正確には覚えていないが、そうなるまで、あまり時間はかからなかったように思う。
 酒盛りの後には、そのまま泊めてやることもあったし、ミロの方から双児宮へ足を運ぶ回数も増えた。任務のない日が重なると、二人連れ立って聖域の外へ出ることもしばしばあった。
 カノンは、どこにいてもミロに構いたがった。他人に手を引かれた記憶など、聖域に連れて来られた日以来であったから、はじめミロは驚いて、思いきりカノンの手を振り払ってしまったのだが、カノンは気にした風もなく、懲りずに何度でもミロの手を取った。根気負けしたミロが、カノンの手を不承不承握り返すようになるまで、やはり時間はかからなかった。
 思えば、カノンはよくミロに触れたがった。頭や髪を撫でたり、額を小突いたり、頬に触れたり、肩や腰を抱いたり。ミロには兄弟がなかったが、もしも兄がいたらこんな感じだろうかと、ずっと、そんな風に思っていた。

 何かにつけてそんな調子だったから、ある夜、酒の酔いがまわる時分に、カノンの吐息とおのれの吐息が、混じり合うほど近くにあった時も、ミロは別段驚きはしなかった。嫌悪感といったものも不思議なほどなくて、意外と悪くないかもしれない、ただそう思った。
 それで何となく、くちびるだけでは足りなくて、身体まで重ねてしまったのが、先週末の夜。



 カノンの身体が小さく傾いだので、ミロは仕方なく、今にもソファから滑り落ちそうになる肩を抱いて支えてやった。放っておいても良かったが、でかい図体で床の上をごろごろされても、それはそれで困る。
「立てるか?」
「……あぁ」
 ソファの背に力なくもたれかかったままで、カノンは曖昧にうなずいた。そうは言うものの、すっかり弛緩しきった身体からは、力をこめようという意思がまるで感じられない。空返事かと、ミロは早くも諦め顔になった。
「気分は?」
 訊ねると、カノンは小さく首を横にふった。いいのか悪いのか、それではどちらとも判断がつかないが、顔色はいつも通りだし、そう悪くもないのだろう。
 仕方ない。なじみのよしみで、介抱くらいはしてやるか。
 そう思い、あらかじめ用意してあったミネラルウォーター入りのグラスを寄越しても、もはや口にするのも億劫なのか、カノンは黙って首を横にふるばかりだ。呆れつつも、ミロはカノンをそっとソファの上へ横たわらせてやった。
「らしくないな。任務疲れか」
 聖闘士が疲れるなどという話は聞いたこともないが、取りあえず思いついたままを訊ねてみる。
「……いや」
 やっと言葉らしい言葉を発したかと思えば、カノンはすぐに沈黙してしまった。部屋の明かりは、隅に置かれた間接照明のみだが、明るさを絞ってもまぶしいらしく、カノンは腕でひさしを作り、それからゆっくりと瞳を閉じた。
「寝不足とか」
「そうだな」
 当てずっぽうで訊ねてみれば、カノンがあっさり肯定したので、ミロは少々面食らった。
「……そうなのか」
「意外か?」
 図星を指され、今度はミロが沈黙する番だった。確かに意外ではあるが、カノンとて寝不足に悩まされることもあるだろう。戸惑ったのは、カノンの言葉に、若干、刺が含まれているような気がしたからだ。
「なぜだと思う」
 ソファの上に肘をついて頭を支えると、カノンは視線でミロを促した。とはいえ急に問われても、ミロにはさっぱり心当たりがなく、曖昧に首を傾げるばかりである。
「……悩みでもあるのか?」
「大当たり」
 冗談めいたセリフだが、カノンの目は笑っていなかった。ミロは一瞬口をつぐみ、黙ってその先を待つことにする。カノンはわざとらしく大きなため息をつくと、それから力なく肩を落として見せた。
「聞いてくれないのか? 理由を」
「……」
 これはどういう茶番なのだろうか。さっきまで眠たそうにしていたくせに、今やカノンの意識は完全に覚醒しているように見えた。だが、耳慣れた声音はどこかとろんとして甘やかで、もしかしたら半分寝ぼけているとも考えられる。
「話したいのなら、聞いてやる」
「かわいげがないな。そんなでは女も寄りつかないぞ」
「結構だ」
 かわいいなどと言われて喜ぶ男がいるものか。そんなセリフは女子どもに使うものだ。頭ではそう思っても、カノンに言われるとなぜだかとても腹が立つ。
「そういうところがかわいくない」
「結構だと言っている」
「おまえから話題をふったんだろうが」
「うるさい。話す気がないならもう黙れ。いったい何がしたいんだ貴様は」
 いつの間にかソファから上体を起こし、今やカノンはミロへと向き直っていた。思いがけず真剣なその表情からは、もはや眠気とか酒気とかいったものが、すべて取り払われているように見えた。
「ミロを抱きたい」
「そうか。……は?」
 一瞬自分の耳を疑うが、カノンはいやに真面目な顔つきで、ミロの顔をひたすらに見つめている。
「何だと?」
「おまえとやりたい。セックスしたいという意味だが」
「わざわざ言い直さんでもわかるわ!」
「なら聞き返すな。返事は?」
 矢継ぎ早に告げられて、ミロは二の句も継げなかった。からかわれているのかとも思ったが、カノンの表情は変わらず、見たこともない硬い表情をしている。
「返事だと?」
「イエスかノーか、聞いてない」
 ミロは絶句した。カノンはもしかして、本当はこれ以上ないくらい、酒に酔っているのではなかろうか。だいたい一度寝た相手にこんな訊ね方をするものだろうか。自分ならば、もっとスマートにそういう雰囲気に持ち込んで、否も諾も告げさせず、奪えるであろう自信がある。ましてやカノンはミロより八つも年上だ。そういった手管は、どちらかというと、ミロより上手に思えるのに。
「どっちなんだ」
 いい加減焦れた様子で、カノンが、その綺麗な顔を情けなく歪ませた。まるで子どもみたいだ。自分に自信がなくて、欲しいものが手に入らないかもしれない。でも、それでも欲しいと駄々をこねている。
「それが寝不足の原因か?」
「他に何がある」
「この間寝たばかりなのに」
「オレは毎晩でも寝たい」
 カノンが即答するので、ミロは噴き出しそうになってしまった。そういう意味で言ったのではない。今さら何を遠慮することがあると言いたかっただけだ。でも、黙っておくことにする。
「ノーと言ったら?」
「寝不足で、今すぐ死ぬ」
 ミロは今度こそ遠慮なく噴き出した。だが、今はカノンの方も笑っている。
「イエスかどうかは、自分で確かめろ」
「……ミロ」
 低い声音に名を呼ばれ、頭ごと優しく抱き寄せられる。抵抗はしなかった。だが、くせ毛を撫でつけられた後、耳にかかる髪をそっと払い除けられ、耳殻に指が差し込まれた時は、不覚にも身体をびくつかせてしまった。
「ミロ……」
 ごく自然に顎をとられて、くちづけまで導かれる。重ねたくちびるはすぐに熱を持ちはじめた。待てと制止しようにも、カノンはもう、ミロの舌に自分の舌で触れる行為に夢中になっていて、ミロの頬は焼けつくように熱くなった。そんな風に求められたら、ノーなんて言えやしない。

 互いに息が酒臭い。けれどそんなことはどうでもよかった。
 カノンとのキスは、恐ろしいほどの飢餓感を、真っ向からぶつけられる。優しいのに、こんなにも貪欲なくちづけを、ミロは知らなかった。このくちびるも舌も、すべてオレのものだと感じ入らせるようなキス。強引なのに、決してミロに強いるわけではない。そう遠くない未来に、いつしかミロは、自分からカノンへ舌を差し出すようになるかも知れない。



 もう、後ろは十分すぎるほどほぐされているのに、カノンは露わになったミロの耳朶を、何度も何度も舌で嬲った。耐えられず、カノンの首に腕をまわして早くしろと急かしても、カノンはまるで無視を決め込んだ。
 辛いのもあるが、それ以上に羞恥と怒りのあまり、ミロは乱暴にカノンの髪を引いた。それでもカノンは耳朶への愛撫をやめない。粘膜を嬲る水音が淫らに響き、わなわなと身体が震えて、切なげなため息が洩れる。
 いい加減にしろと罵倒するつもりが、名を呼べば、もう懇願にしかならなくて、ミロは自分自身を呪いたくなった。くちびるを噛んで、カノンの身体に自らをこすりつけると、うなじのあたりに彼の熱い吐息がかかるのを感じた。それでまた、頬が熱くなる。
 一瞬のうちに脚が開かれると、のぞんでいたはずなのに、ミロは筋肉を強張らせた。後ろへの侵入と同時に、身体の間に手が差し入れられ、硬く充血したそこをこすりあげられる。
 そうされるたびミロの下肢は喜悦に震え、その動きにあわせて、灼熱が肉壁の内側をだんだんと押し拡げていくのがわかった。いきなり激しく抽迭を繰り出され、何度も乱暴にこすられると当然痛みはあるが、カノンと触れあう心地よさの方が勝った。もっと強く、深く繋がりたいと、貪欲に求められるその行為も、あらがい難い快楽をミロへ与えた。
 悶えながら焦れったく腰を使うと、カノンが低く呻いたので、その動きがカノンにも悦びを与えたらしいと知る。興奮で背すじがぴんと張りつめた。
 揺さぶられながら、耳元で優しく名を呼ばれるたび、返事をしたいのにできなくて、ミロはやるせなく息を吐いた。代わりに声を抑えるのはやめた。ミロが高い声をあげて腰をやわらかく捩らせるたび、カノンの昂ぶりがいっそう熱く、かたくなるような気がしたからだ。
 真白い閃光が弾けるような錯覚に襲われて、ミロは強く目を瞑った。再奥に注ぎ込まれる感覚と、カノンのうなり声が耳に残って離れない。それをもう一度聞かせて欲しい。もう一度。







 脱力しきって、カノンの胸の上に頭をのせたまま呆けていると、大きな手がくしゃりとミロの髪を撫でた。結局明け方まで休まず四回もしてしまい、一睡もできないまま朝を迎えた。今日はカミュとアイオリアと、三人でアテネ市街へ下りる約束があったのに、腰はだるいし身体中べたべただし、気に入りのソファも、これではもう二度と使い物になるまい。
 恨めしく、ミロは置かれたカノンの手の甲をつねってやった。
「なぜ怒る」
「自分で考えろ」
 盛るのは結構だが、やられる方の身になってみろと言ってやりたい。しかも抜かずに三発なんてありえない。絶対に調子づいているに違いなかった。
「ミロ」
「シャワーを浴びてくる。戻るまでに片づけておけ」
 それで許してやると、上体を起こしてカノンの上に馬乗りになり、ミロは傲岸に言い放つ。カノンは大人しくうなずいて、それから、ミロの頬へそっと手を伸ばした。そのまま耳朶に触れ、耳殻のかたちをなぞるように、指先が弧を描く。
「な、」
 ぞわぞわとした感覚に驚き、カノンの上から飛び退こうとして、腰をがっちりホールドされていることに気がついた。
「何を」
「おまえ、ここが弱いんだな」
「!!!」
 一瞬で、身体中の血液が顔に集まるのを感じた。カノンの手を振り払い、ミロは思わず両の耳を手で塞ぐ。そういえば最中に、やたらとここに触れられた気がする。耳元で囁かれる回数も、心なしか多かったような。
「貴様、」
「かわいいな、ミロ」
 罵ろうとする前に、そんなセリフを被せられて、ミロはぱくぱくと口を開閉した。
「一緒に入るか」
 カノンが勢いよく起き上がったはずみで、ミロの背が大きく傾いだ。腕を強く引かれてその反動に身を任せたら、ぐるり視界が反転する。肩に担がれたのだと理解するまで、数秒を要した。
「下ろせ、このバカ、誰が」
「隅々までよく洗ってやろう。今日は『お出かけ』なんだろう? 水瓶座と」
 知っていたのだ。獅子座もだったか? と聞くわりに、カノンがミロの返答を必要としていないことはあきらかだった。つかつかと勢いよくすすむ先には、天蠍宮の浴室がある。
「特に耳はよく洗わないとな」
 カノンの表情は見えないが、それは楽しげに笑っているであろうことが容易に想像できた。完全にからかわれている。昨夜はあんなにも、殊勝な態度を見せていたくせに!
「ミロはかわいいな」
 あらぬセリフを繰り返されて、今やミロの頭は恐慌状態だった。浴室で何をされるのか、考えただけで怖気が走る。
 聖闘士同士の私闘は固く禁じられている。だが、今ここでカノンをやらねば、やられるのは自分の方ではないか。
 指先に小宇宙を集中させて、カノンを仕留めるまで、あと少し。
 気配を察してかそうでないのか、カノンが朗らかに笑う声がした。