月とクレーター
「ッ、た」
ミロが急な声をあげて、一瞬、片目をすがめたので、カノンは手にしたマグカップを、素早くサイドテーブルの上へと戻した。
「見せてみろ」
「いらん」
カノンの手を振り払い、ミロが忌々しげに吐き捨てた。そのくちびるは半開きで、赤い舌先が、上唇の裏側を確かめるようにちらちらと蠢いている。
「やけどか?」
訊ねつつ、冷蔵庫の製氷室から氷をひとかけら取り出すと、カノンはミロのくちびるへとそれを押しつけた。指先の熱で早くも溶けはじめた氷の水滴が、カノンの手首をつたい、シャツの袖口までを濡らしている。
「口を開けろ」
「いらんと言うのに」
「いいから早くしろ。オレが凍傷になるだろうが」
カノンにしては面白い冗談だ。ミロが声に出して笑った隙に、カノンの指先が、氷のかけらをしつこく押しやってきた。
「飲みこむなよ」
凍傷になると言いながらも、カノンは、すぐに氷を放り込もうとはしなかった。確かに塊は、万一間違って喉の奥に詰まらせようものなら、しゃれにならないくらいの大きさではある。
大胆で、おおざっぱな一面もあるくせ、ミロのことになると、驚くほど慎重になるのだ。この男は。
ふたたび笑い出しそうになったミロは、しかし、存外真剣なカノンの表情に、考えをあらためた。
かちりと小さな音をたてて、氷の塊を前歯で挟んでやると、冷気を孕んだ空気が、口内へ侵入してくる。同時に、カノンの親指と人差し指が、ミロの犬歯に触れた。それでも、ミロの口内を検分しようとしてか、表情一つ変えずに、カノンがまじまじと下から覗き込もうとしてきたので、ミロはわざと音をたてて氷の塊をかみ砕いてやった。カノンがあわてて指を引っ込めるさまがおかしくて、ミロは上機嫌になる。
「それでは意味がないだろう」
カノンはまだ、ミロの舌のやけどを気にしているらしい。そろそろ本当のことを教えてやった方が良さそうだと、ミロは判断した。
「やけどじゃない」
「……何だって?」
がりがりと氷をかみ砕きながら、ミロは平然と言ってのけた。
「口内炎だ。だからいらんと言っただろう」
早とちりめと言いつつも、自分のためにあれこれと世話を焼くカノンを見るのは、嫌な気分ではない。だからミロは、あっけにとられている男のくちびるを、冷たい舌先でなぞってやった。
「確かめさせてやる」
納得のいかない様子だが、カノンは黙ってミロのくちびるを受け入れた。まだ氷の余韻が残るミロの口腔内を、やわらかな肉を味わうようにして、カノンの舌先が熱心にねぶる。だんだんと、吐息に含まれる熱量がふくらんで、互いにかかる息が、ぶつかるような激しさを増してゆく。角度を変える間も惜しく、カノンのくちづけに応えようとして、ミロは夢中でカノンの舌におのれのそれを絡ませた。
「……だから、もっとゆっくりものを噛めと、いつも言っているのに」
カノンは無事、ミロの口内炎のありかを探り当てたようだった。しかも原因まで当ててみせるとは、たいしたものだ。だが今、くちづけを中断してまで言わねばならないことかと、ミロは少しばかり面白くない気分になる。
「うるさい。だったら料理もそういう風に工夫してみせろ」
「それは、がっつかれないような飯を出せということか」
呆れた声を出すくせに、カノンはどこかうれしそうだ。そして、満足げでもある。
「まあ、またこうやって、確かめさせてもらえるなら、それでいいか」
ふたたび、せまくてあたたかな月面にできたクレーターを探るべく、カノンは、ミロのくちびるへ、着陸を試みた。