インソムニアの男
教皇宮のもっとも奥深くに位置する執務室は暗い。
陽の光が差し込む唯一の窓は、どっしりとした重量感ある、深いえんじ色のカーテンで覆われており、室内を照らす明かりは燭台に灯された蝋燭のみという、徹底した因習のせいでもある。
その日、時刻は正午をまわったところだった。
執務室へと続く長い回廊を、外套を閃かせる音もなく、ミロはただ一心に突き進んでいた。
閉ざされた重厚な造りの大扉は、ミロの背丈のゆうに二倍の高さがある。辺りに人の気配がないことを確認して、扉を静かに押し開くと、ミロは素早くその身を室内へ滑りこませた。
後ろ手に扉を閉め、部屋の中央に鎮座する巨大な黒い執務机に目をとめる。いつもは閉めきりの大窓が、今日ばかりは盛大に開け放たれており、導かれた光を一身に受けた長身がくっきりとしたシルエットとなって、ミロの頬に影を映し出していた。
「蠍座の黄金聖衣が泣くぞ。賊のような真似をして」
逆光になって見えづらいが、男が口元に悠然とした笑みを浮かべているのがわかり、ミロはやや不満そうな顔つきになった。
「仕方がなかろう。任務以外でここを訪れるのは、原則禁止されている」
「そうだったかな」
「とぼけるのはよせ。こんな話をしに来たのではない。それから、その薄ら笑いもやめろ」
ミロが指摘すると、男はわざとらしく首を傾げて、みずからの頬骨のあたりをゆっくりと撫ぜ、それから、やや離れたところにある大きな姿見へと目をやった。
「そんな風に言われると傷つく」
「……戯言ばかり抜かすのなら、オレはもう行く。邪魔をしたな」
すげなく言い放ち、ミロは音もなく踵を返した。だが、有無を言わせず後頭部を軽く引かれて、顎ごと仰け反ってしまう。無遠慮にも、黄金の蠍の尾に触れられたのだ。
「カノン」
苛立ちを隠せず、ミロはその名を呼んだ。怒気を孕んだ声音にひるむ様子もなく、カノンは、蠍の尾をなおもみずからの元へ引き寄せようとする。後ろから伸びてきた腕が素早く腰にまわされてきたのと同時、ミロはカノンの胸に容赦ない肘打ちを放った。だが、それもあっさり受け流される。
「まるで逢い引きのようだな」
「はなせ。何が逢い引きだ」
「人目を忍んで密室に二人きり。これを逢い引きと呼ばずして何と言う」
「密室じゃない。耳元でごちゃごちゃ話すな!」
黄金の髪に隠されたミロの耳朶へ、息を吹きかけるようにしてささやくと、カノンは声を低くして笑った。逃れようとして身を捩るミロの身体は、黄金色に輝く聖衣ごと深い闇色の法衣に包まれた。
現教皇職を務めるサガが、突如として倒れ伏したのは、つい二日前のことだ。診断結果によると、疲労と心労から来る寝不足で、ようは不摂生が原因らしい。いかにもサガらしい理由だが、仮にも女神を補佐する立場としては、あまり外聞のいい話ではない。サガが一手に引き受けている実務や雑務は、一日も放置すれば、当然、山のように積み上がるし、それ以上にやっかいなのが、外界の使者から求められる謁見である。
聖戦後、ようやっと復興の骨格が整ってきた聖域には、和平協定を結んだ冥界や海界からの使者が頻繁に訪れるようになっていた。女神が戻ったとはいえ、教皇宮に教皇がいないのでは格好がつかないし、身内の恥を外部に晒すわけにもいかない。
そんなわけで、当然というか必然と呼ぶべきか、サガが教皇職へ復帰するまでの間、教皇代理として振る舞うようにとの命が、元教皇のシオンからカノンへ下った。シオンは現在、聖域と五老峰、ジャミールとを気ままに行き来して優雅な隠居生活を満喫する身分であるが、たまにこうして女神に代わり采配を振るうこともある。当然その権力は、現教皇であるサガよりも強い。
「首尾は?」
「上々。……なんだ、そんなことが聞きたくてわざわざここへやって来たのか」
教皇あての書面には、ざっと目を通して裁可、不裁可の印を捺すだけだし、サインが必要なものは、サガの筆跡に似せて書くこともカノンにはたやすい。数回こなしただけの謁見も、今のところすべてつつがなく終えている。シオンの目利きは確かだった。
「そんなこととは何だ。いいからこの手をどけろ」
「不遜だな。仮にも教皇代理に向かって」
抗おうとするミロの顎を捕らえ、カノンは素早くそのくちびるをみずからのそれで塞いだ。くぐもったミロの声と、合わさったくちびるから漏れる、濡れた水音だけが執務室に響く。そうして、あえぐ吐息がやがて熱情を孕んだものへ変わったのを確認すると、カノンはふたたび、ミロの背へなびく蠍の尾を優しく引いた。外套の上を波打つ金糸の海を泳いで、黄金の冠がずるりと床に落下した。高く響いた金属音に、ミロの身体がぎくりと強張った。
「心配してくれたのか? ……ミロ」
ミロの肩口を覆う流線形の肩当てにくちびるを寄せ、カノンがささやいた。黄金色に輝く聖衣は強靱で、冷気も熱気もよほどのことがなければ通さない。けれど、カノンのくちびるが触れたところから、熱がじわじわと燻るように感じられて、ミロは思わず身を竦めた。
「……心配じゃない。サガのことで話があって来た」
「聞きたくないな」
素っ気なく言って、カノンはミロの頬へくちびるを移した。顔を背けるミロを追い、次いでこめかみとまぶたへ、音をたてて口づける。法衣から漂う僅かな香の匂いは、まるで知らない男に抱きしめられているようで、ミロは不快に眉をひそめた。
「いいから聞け。正確に言うと、サガは寝不足ではない。直接会って確認してきた」
「なぜそんなことを」
「若干、気にかかることがあってな。……どうやら眠れないらしい」
カノンは表情を変えなかった。
「サガが眠れなくなったのがいつからか、確認したことはあるか?」
「知るか」
「やはりな。……おい、もうよせ。うっとうしいぞ」
ミロがカノンの頭を小突く。カノンはかまわず、ミロの額や目尻に飽きることなくキスの雨を降らせているが、滲む不機嫌さは隠しようもなかった。
「あいつの話こそがうっとうしい。自己管理もできぬくせに、教皇職などに手を出すからこのざまだ。自業自得だろう」
刺々しいその声音に、ミロは完全におのれがカノンの地雷原に足を踏み入れていることを知った。もともとカノンは、ミロがサガの話をすることをあまり好まない。ほかの黄金、たとえばカミュやアイオリアの話をするときは、こんな風になることはまずないのに、サガの話をするときだけは別だった。これも双子の確執の果てかと、ミロは単純に考えている。
「二週間前だそうだ」
「そうか」
「心当たりは?」
ずばり直球で訊ねてみると、カノンは面白くなさそうな顔をして、やっとそこでミロの頬からくちびるを離した。
「ない」
「本当に?」
青い双眸を僅かに細めて、ミロは腕組みになった。
「二週間だぞ」
念を押すように、ミロがもう一度そのセリフを口にする。カノンはふと、思いついたように一つまばたきをした。
「ミロと寝た」
「双児宮だったな」
「…………」
「オレが何を言いたいのかわかるか?」
カノンが逡巡する間に、ミロはするりと法衣の中から抜け出でた。カノンはそれを名残惜しそうな目で見やり、ふっとため息をついた。
「あの夜サガは教皇宮にいた。翌日も、昼過ぎまで戻ってきていない。それはおまえも知っているだろう」
つまりミロは、双児宮での情事をサガに目撃されたのではないかと、そう言っているのだ。
「途中で戻ってきていたとしたら?」
「バカな。そんなはずは」
「オレは、ないとは言い切れん」
ミロがくちびるをやや尖らせた。確かに、最中はお互い夢中になって貪り合ったので、万一サガが戻ってきたとして、その気配に必ずしも気づけるかといわれると、カノンも断言はできなかった。
しばしの沈黙の後、ミロは小さく息をついた。
なんとなく酒の勢いに任せ、どちらからともなく戯れにくちびるを重ねてみたのがそもそものはじまりで、あろうことか、最後まできっちりしてしまったのが運の尽きだ。意外にも、相性がことのほか良ろしかったので、それからというもの、お互いに気分が乗れば抱き合うこともある。
けれどもちろん、二人の関係は内密だ。確認したことはないが、後腐れなく関係を終えるためにも、それは必然ともいうべき暗黙の了解だとミロは思っている。だからこそ、今のこの状態は非常にまずい。しかも相手は、現教皇である。
「……サガに、感づかれたのかもしれん」
「だとして、それでなぜ不眠症になる。オレとおまえの問題であって、やつには髪の一筋たりとて関係ない」
吐き捨てるカノンへ、おまえはバカかと、ミロはその優美な額をピシリと爪弾いてやった。
「血の繋がった弟が、同輩の、しかも同性と関係を持っていると知って、喜ぶ兄がいると思うのか」
「オレはやつが誰とどんな関係を持とうが気にしない」
「誰がおまえの話をしている。サガの話だ」
「サガ、サガと、さっきから何度も呼ぶな。今おまえと話をしているのはオレだ」
先ほどまでの余裕で偉ぶった態度はどこへやら、まるで子どものようなセリフを恥ずかしげもなく口にする男へ、ミロはやれやれと呆れ顔になった。サガの話でむきになるカノンを見るのはそうめずらしいことでもないが、今日は特にひどい。
しかし、もし本当にミロの推測通りだとすれば、サガの不眠の原因を作った責任は二人にある。そうなると、ミロとしても黙って見過ごすわけにはいかなかった。
「!」
ぐいと乱暴に腕を引かれ、ミロが膝をついたのは、例の大きな姿見の前だった。陽の光を受けて、蠍座の黄金聖衣が放つ輝きが室内に乱反射する。その光をさえぎるように、カノンのまとう法衣がふたたびミロへと覆いかぶさった。
「何を」
鏡に映るおのれの頬が強張っていることに気づき、ミロは舌打ちして視線を床へ落とす。だが、カノンの指先がミロの顎を無遠慮に捕らえ、鏡の奥を見据えるよう強要した。圧倒的な力だった。
「カノン」
「今は『サガ』かもしれんぞ」
代理とはいえ教皇だからな、とうそぶいて、カノンはミロの髪をゆっくりと梳かした。露わになった耳朶にくちびるを寄せたかと思うと、静かに歯をたてる。ミロは思わず鏡から眼を背けようとするが、叶わず、強い力で鏡に額を押しつけられた。
法衣に身を包み、鏡の中で酷薄な笑みを浮かべる男が、一瞬、双子座の兄であるかのような錯覚を起こして、ミロの全身は総毛立った。カノンの意図に気づき、悔しさに歯を食いしばる。
「よせ、悪趣味だぞ」
「たまには趣向を変えてみるのも一興だろう」
「願い下げだ……ッ!」
振り払おうとする腕を逆手に取られて、後ろ手に締め上げられる。ミロは小さく呻いた。黄金の肩当てがいとも簡単に外されて、むき出しの肩が露出した。鏡越しに見るカノンの赤い舌が、妙になまめかしい動きで、露わになった肩関節の部分を舐めあげる。曇り一つない鏡に映るのは、ミロの意思に反して熱を上げはじめる、もどかしい身体だ。
嫌悪感を覚え、これ以上はと、ミロが瞑目したときだった。
バァン!!! と大きな音を響かせて、執務室の扉が勢いよく開け放たれた。さしものカノンも予想していなかったことと見え、腕の力が緩まったその隙をついて、ミロは光の速さで執務机の下、袖机の横へと潜りこんだ。無論、床に転がった蠍座の黄金聖衣の一部を回収することも忘れない。執務机が、姿見からさほど離れていないところにあって良かった。
だが、胸をなで下ろす一方で、カノンとまったく同じ声質が室内へ響き渡ったので、ミロは驚きのあまり全身を硬直させた。
「カノン」
「……。本当に、うっとうしいな。貴様という男は」
行き場を失って空しく宙を掻く両腕を、仕方なく交差させて、カノンは腕組みになった。
双児宮のベッドで横になっていたはずのサガは、今、カノンと揃いの教皇服を身につけており、部屋の中央で仁王立ちになっていた。顔面は蒼白で、目の下にはわかりやすい大きな隈ができており、やつれた様子は隠せぬものの、神の化身と称えられる美貌は、それでもなお輝きを失ってはいなかった。
「話がある」
「こちらにはない。去れ」
カノンがにべもなく言い放つ。しかしサガはそこを一歩たりとも動こうとはしなかった。
「おまえにとっても大事な話だ」
「ほう?」
ゆっくりと片眉を上げ、かたちばかりの反応をしてみせるカノンだが、いまだ腕組みも解こうとしないその高慢な態度からは、サガの話を聞いてやろうという姿勢が微塵も感じられない。ミロは舌打ちしたい気分だった。
たった今、話題に上がっていた渦中の人物が、みずからこちらへ出向いてきてくれたのだから、話を聞き出す絶好の機会だろうにと思う。ここは自分が出て行くべきだろうか。しかし、サガの方からわざわざカノンへ話があるというくらいだから、思わぬ話が聞けるかも知れない。
ミロはじっと息を潜めて、双子の会話の行方を見守ることにした。
「ミロが双児宮へ来た」
いきなり名指しされたので、ミロはぎょっとして目を剥いた。
「それで?」
「具合はどうかと聞かれた。……働き過ぎではないのかとも言われた」
サガの言っていることは事実だった。ミロはこの執務室へ来る前、双児宮まで降りて、サガの容態を見舞っていた。寝ているならばそれで良し、だが、ベッドへ横たわってはいたものの、案の定、サガの意識はしっかりと覚醒していた。ミロの顔を見て困ったような笑みを浮かべるサガから、二週間前から眠れないのだという話を、ミロはそこではじめて聞かされたのだ。
「オレにとっての大事とは?」
カノンがずばり核心に触れたので、ミロは注意深く耳を澄ました。だが、次に続いたサガのセリフに、身を凍らせる。
「驚かずに聞いて欲しい。わたしはどうも、ミロを愛しているらしい」
「……何だと?」
カノンの全身が物騒な小宇宙をまといはじめるのを、ミロは見た。だが、そんなカノンの様子に気づいているのかいないのか、サガはかまわず言葉を継いだ。
「いずれはわかることだろうから、おまえだけには、先に話しておこうと思ってな」
言葉を失うカノンの拳が、力をこめるあまり、だんだんと白くなっていく。息を殺したままで、ミロは僅かに眉をひそめた。
唐突すぎて、ミロ自身にも、サガの言っている意味がわからない。そのようなそぶりをサガが見せたことは、これまでに一度たりとてなかった。しかしサガの様子を見る限り、ふざけているわけでもなさそうだ。
「悪い冗談だ」
低い声でカノンが言った。しかしサガは意外にも、そのセリフをあっさり肯定した。
「わたしもそう思う。だが、もう一刻の猶予もない。ミロのことを想うと眠れず、ついにはこのざまだ。早くなんとかしないと、元のわたしに戻れなくなってしまう」
「何だそれは。それに、『らしい』とはどういうことだ? よもや自分の気持ちがわからないとでもぬかすつもりか」
「うむ。まさにそのことで相談があってここへ来た。……実はミロへの愛情に、いまいち確信が持てぬのだ。自分の気持ちだというのにおかしなことだがな。それで、ミロと懇意にしているおまえならもしやと思ったのだ。聞いてくれ、カノンよ」
一瞬のうちにさまざまな表情を浮かべるカノンへ、サガはとつとつと語りはじめた。
どういうわけかわたしにもさっぱりわからないのだが、二週間ほど前から断続的に、同じような夢を見る。ミロを抱く夢だ。……ああ、夢の話だぞ。そんな顔をするな。あくまで夢なのだ。現実ではない。嫌悪するかもしれないが、今は黙って聞いてくれ。
はじめにミロとそういう行為に及んだのは、双児宮だ。そして次がおそらく、天蠍宮の寝室だ。月のない、風が強く吹く晩だった。それから、次が浴室だな。これもたぶん天蠍宮なのだろう。視界が湯気で煙るのまでが、はっきりとわかった。
こんな夢を見るのは、無論、あってはならないことだ。だが、さすがに夢の内容までもコントロールする力はわたしにはない。今日こそは夢も見ず、深く眠りにつきたいと願っていても、言ったとおり断続的に、しかも場所を変えて、わたしは繰り返し夢の中でミロを抱く。
こんな夢からは、早く目を覚まさねばと思う一方で、このまま目覚めたくないと願うわたしがいる。完全なる矛盾だ。また自我の崩壊が始まったのかと恐れおののいた。わたしは夢の中で、獣のように貪欲にミロを求める。ミロの方もまんざらでもなさそうな様子だ。まるで誘うように、どちらかというと積極的な姿勢で……だからそんな顔をするな。夢の話だと言っているだろう。まあ、夢だからな。わたしに都合良くできていることは否めないか。
聞くところによると、人は夢から覚めたいと感じたときに、場合によっては目覚めることもできるらしいのだが、残念ながら、わたしはそこまでの強い気持ちで祈ったことはない。つまるところ、わたしは、またあの夢を見るのを心待ちにしているらしい。
だが、女神に誓ってもいい。わたしはこれまでミロをそのような目で見たことは一度もなかった。確かにミロは見目もよいし、心根も素晴らしい。聖闘士としての資質は十分、聖域が誇る立派な黄金聖闘士だ。だが、決してミロに対してやましい感情や、醜い欲望を抱いたことはないと、わたしは断言できる。
しかしだ、ここからがまたさらに驚きなのだ。実は、今まさにここへ来る直前の話なのだが、わたしはついに白昼夢ともいうべきものを見た。あろうことかこの執務室で、黄金聖衣に身を包んだミロを、わたしは手にかけようとしたのだ。そう、ちょうどそこにある姿見の前だった。これまでに見た夢とは異なり、ミロはあまり乗り気ではなかったようだ。わたしは悲しくなった。ミロに無体を強いたいと願ったことはない。だが、そのときわたしの胸はなぜだがとても切ない気持ちでいっぱいになった。なぜかはわからない。鏡に映るわたしではなく、ここにいるわたし自身を見て欲しいと――そう、思ったのだ。ほかの誰でもない、わたしを。
これを愛と呼ぶのは早計だろうか、カノン。だがわたしには、ほかにどう例えたらいいのかわからないのだ。
執務机の下で息を潜めて様子をうかがっていたミロは、そこでやっと合点がいった。
サガが、なんとなくここのところ、ミロに対してよそよそしい態度をとっていたのは、そういうことだったのだ。目が合えば、うろたえたような素振りでそそくさと去ってゆくくせ、嫌悪や拒絶といった風ではないので、ミロはずっと不審に思っていた。
それで思い当たったのが、カノンとの情事を目撃されたのではという懸念だったのだが、まさか夢の中で、そのようなことになっていたとは。
あまりのことに思考が追いついていかないが、夢の中の話であるし、本人も戸惑っているようなので、ここでサガに怒りをぶつけるのは何か違う気がする。
それに今のサガの話には、いくつか気になる点がある。まさかと思い至ったミロだったが、結論を導き出す前に、その思考は中断させられてしまった。室内に籠もりはじめた、爆ぜんばかりのカノンの小宇宙によって。
「サガ、貴様というやつは……!! よくも勝手に……何が夢だと?」
拳をわなわなと震わせて、表情を怒りで歪ませたカノンは、それこそ悪鬼のような形相だった。いつでも泰然として、余裕たっぷりの笑みを浮かべる男が、今や見る影もない。その腕が、引き千切らんばかりの勢いで、サガの法衣の胸倉を乱暴に掴み上げた。まさに一触即発。身を低くしたまま、ミロは僅かに身構えた。
「カノン、落ち着け」
「黙れ。善人面をして、やはり貴様はとんでもない男だ。あのとき殺しておけばよかった」
「この手を離せ」
「その息の根を止めた後にな」
尋常でないカノンの剣幕に、ミロは思わず息を呑んだ。カノンは本気だ。だが、今、こんなところで千日戦争が勃発しようものなら、聖域はおろかギリシャ全域、いや、地球そのものが危ういかも知れない。何せ二人は、かつて聖域と世界中を混乱に陥れた、黄金聖闘士のなかでも最強とうたわれる双子座の兄弟である。
「カノン、よせ」
サガに応戦する気配が見えない今が好機か。考えるよりも先に、ミロは二人の間に割って入っていた。双方の胸を押し戻し、広げた腕の分だけ距離をとらせる。
「二人とも、そこまでだ」
「ミロ?」
「退け、ミロ。おまえは腹が立たないのか」
サガが驚きの声をあげ、カノンはミロの腕を掴む。ミロはサガを背に庇うようにして、カノンの前に立ちふさがった。
「カノン、落ち着け。夢の内容まで、とやかく言う権利はオレにはない。サガとて望んだものではないはずだ。違うか?」
「それが本当に夢であるならばな」
「何?」
今度はミロが驚く番だった。カノンはミロの肩を押しのけ、サガに詰め寄った。
「夢などではない。――サガ、それは『同調』だろう」
忌々しげに、カノンが吐き捨てた。
「最初が双児宮で、次が天蠍宮、そして天蠍宮の浴室。ミロ、おまえにも思い当たる節があるな?」
ミロは瞠目した。それは、まさに先ほど、ミロがひっかかりを感じた部分でもあった。つまりそのいずれもが、ここ二週間で、カノンとの行為に及んだ場所である。
「サガはオレを通しておまえを抱いた。そういうことだろう」
サガが息を詰まらせた。だが、本当にそんなことが起こりうるのか。指摘されても、ミロにはいまいち実感がつかめなかった。
双子のシンクロニシティーという話は、確かに聞いたことがある。遠く離れた場所にいても病や感情が伝染するとか、異なる条件下で別のことをやらせても結果が同じになるだとか、そういった話は世界に幾つもあるらしい。ましてや二人は、超人的な能力を持つ、双子座の黄金聖闘士なのだ。何ができても不思議ではなかった。
「覗きの方がまだましだ。この恥知らずが」
怒りも露わに声を荒げるカノンに比べ、サガは一貫して困惑したような表情を浮かべている。カノンの言うことが真実だとして、サガ自身、同調したことについては無意識だったのではないかと、ミロは感じた。そうでなければ、わざわざ自分から、望まない、しかもあのような夢の話など持ち出さないだろう。
そんなことは、これまでの話とサガの様子を見れば明らかだろうに、今のカノンはそこまで考えが及ばないようだった。
「カノン」
「ミロ、下がっていろ。サガ、覚悟はいいな?」
星々をも砕く例の大技の構えをとるカノンを目の前にしても、サガはそこに立ち尽くしたままだった。口元に手をあてて、何やら考え込んでいる。
「『同調』――そうか、あれが……そういうことだったのか」
「サガ、ひとまず退け。ここはオレが食い止める」
ミロが鋭く声を飛ばした。癇癪を起こす(?)カノンなどはじめて目にするが、とりあえずサガをここから移動させた方がいいと思ったのだ。
「ありがとう、ミロ。だが、それはできない」
「サガ?」
言うが早いか、サガは素早くカノンへ駆け寄った。そして両腕を目一杯広げ、カノンを力強く抱きしめる。
「!?」
予想外のことに、カノンがうろたえているのは明らかだった。構えをとったまま、サガを振り払うこともできずに、カノンはそこから動けないでいる。
「カノン、すまなかった。意図したことではなかったにせよ、おまえが誰より大事とするミロとの愛の営みを、わたしまで一緒になって感じ入ってしまった」
あいのいとなみ。ミロは開いた口がふさがらなかった。サガは何か誤解をしている。ミロとカノンの関係は、断じて、そんな甘ったるいものではない。恋愛感情にありがちな、四六時中相手のことを考えては想うだけで胸が痛むとか、相手を自分だけのものにしたいとか、そういった感情は、二人の間にいっさいない。言うならば惰性の関係だ。
確かにミロとて、カノンを憎からず思ってはいるが、別に何を約束した間柄でもない。だからあれは、回数こそ重ねているものの、けっして想い合った上の行為でも、サガの言うような愛を確かめ合う行為でもないのだ。
「ミロ、許してくれ。どうやらわたしは思い違いをしていたらしい」
今度はミロへと向き直り、サガが言った。ミロの手を取ると、それからカノンへしたように、ぎゅうとミロの身体を力一杯抱きしめる。サガの肩越しに見えるカノンの表情が、それは嫌そうに歪むのを、ミロは見た。
「あんな夢を見て、てっきりミロのことを愛してしまったのだと……わたしは錯覚していたようだ。すまなかった。あの感情は、わたしではなく、カノンがミロへ向けるものだったのだな……」
サガは今や瞳にいっぱいの涙を浮かべていた。まばたきを繰り返すたび、濡れたまつげがちらちらと輝きを増す。
「おい、サガ」
「これにて一件落着だ。よかった。これでわたしも心置きなく眠ることができる。カノン、ミロ。どうか二人で幸せになって欲しい」
どうも話が妙な方向に進み始めていることに気がついて、ミロの背中を、よくない何かが走り抜けた。
「待て。何か勘違いをしているようだが、オレとカノンは――」
そこまで言いかけて、ミロの身体がぐらりと後方へ傾いだ。サガの重みが急に増したような気がしたのは、ミロの気のせいではなかった。意識を失ったサガの全身を受けとめて、ミロの瞳が執務室の高い天井を一瞬だけ映し出す。
無様にも背中から床へと倒れ込みそうになるところを、カノンの腕に横から攫われた。ただし、サガの身体だけは、そのまま床の上にどさりと倒れ伏す。器用にミロだけを抱きとめたまま、カノンが小さく息をついた。
「……。寝ている」
「よほど安心したんだろう。まったく、人騒がせな男だ」
うつ伏せに横たわるサガを見下ろし、カノンが呆れたようにつぶやいた。もう、その拳は怒りに震えてもいなかったし、顔は歪んでもいない。
安らかな寝息をたてて、胸を上下させるサガの顔は、まるで母親のそばで眠る赤ん坊のように無防備で、穏やかだ。
「サガは何か勘違いをしているようだが、とりあえず、本当のことはしばらく黙っておいた方がいいか」
勘違い一つで、サガの安眠が得られるならば、それをわざわざ突き崩してやる必要も今はない。これで近々、サガは教皇職へ復帰できるだろうし、カノンは元通り、双児宮へ戻ることになるだろう。
しかし驚いたぞ、と深いため息をついたミロは、そこで思いのほか近くにカノンの真剣な顔があることに気づき、一瞬、言葉に詰まってしまった。
「勘違いではないと言ったら?」
「は?」
「というか、こちらとしては、わかりやすいアプローチを仕掛けているつもりだったんだが」
「な、……ん、う」
きょとんと眼を見開き、かつ半開きのままのミロのくちびるに、カノンはそっとくちづけを落とす。下唇を軽くついばまれたかと思うと、不意に角度を変え、深く侵入してくるカノンの舌の動きに、ミロはいつもながら翻弄されてしまう。
ミロの舌のやわらかさと歯列の並びを確かめるように、熱心に舌を動かすカノンへ、いつものように応えるべきか、それとも、言葉の意味を確かめるべきか。だがどちらにせよ、今のミロに、選択肢を選ぶ余裕はとうになかった。
せわしなく肩を上下させるミロへ、一瞬だけ息継ぎの猶予が与えられた。けれど代わりに外套ごと床に縫い止められて、今度こそ完璧に、ミロの視界は反転させられる。
「カノ、」
「サガを通して伝わってしまったことは、非常に残念だ。だが」
きちんと装着し直したはずの蠍座の黄金聖衣が、肩口、腕、小手と、カノンの指先によって器用に外されてゆく。ただし今度は、頭部だけ残されたままで。
「きっかけを与えてくれた兄に、ここは素直に感謝すべきなのだろうな」
見下ろすカノンの髪が、法衣が、まるでミロをそこに閉じ込めるかのように降りてきた。
声にならない悲鳴を上げる前に、ふたたび、ミロのくちびるはカノンによって深く奪われた。